4/6のしゅちょう             文は田島薫

(年寄りの価値について)

日本は高齢化社会になり、老人がどんどん増えて来てるので、それの年金やら介護費用

やらを若者が負担してるようなイメージを持たせる税制などの影響もあってか、下手す

ると老人は社会のただの厄介物ってとらえられているようなんだけど、たしかに、家庭

にあって、身体が弱って来た老人がちょっと体調をくずしたりして寝込むことが多くな

ったりしたら物理的にも世話が大変なのは事実としても、だからといって老人に価値が

なくなったというわけではない。

よく、老人をつかまえて、気楽に、や〜おじいちゃん、とか、おばあちゃん、とか呼び

かけてる人がいるけど、それがほんとにその老人たちの孫なんだったら全然かまわない

んだけど、そうでもない他人、それも自分と20も違わないようなのにそう呼びかけられ

た老人の気分はいかがなもんだろうか。もし、それが老人になった私(?)だったら、

私は気分わるいな〜。あんたにおじいちゃんなどと言われる筋合いはない、って。

多分老人たちは、年を取ってあまり社会の役にもたたなくなったようだから、多少小ば

かにされるような表現でも仕方ないか、ま、親愛感は示してくれてるわけだから、そこ

で目くじら立てるのはそれこそ大人気ない、って許してくれてるだけなのだ。

そこんとこをわからない、たとえば、昔NHKにいた某アナウンサーのように、自分が

おじいちゃんのくせしてそれの自覚なしに、さほど年上でもない相手におじいちゃん、

だのおばあちゃんだのって呼びかけてよしとしてる人もけっこう多そうだ。

ま、めんどくさい、おれはもうおじいちゃんでいいんだ、おじいちゃんですよ、もう、

あんまりものも深く考えないし、なんでもまるく楽しくおさまれば、ちょっとそそうな

どして、おじいちゃん大丈夫ですか、などと介抱されたら、弱ったふりしてれば楽でい

いし、なんて思ってる老人も多いはずなのだ多分。

だれでも自分のこととして考えてみれば、おじいちゃん、おばあちゃん、って言葉は自

分以外においてのみ有効、って考えてるもんで、青年のころと今も気持に差はない、っ

て人も多く、気持ごと自分は老人だと感じている人は希だろう。

例え自覚とその価値に誇り持ってる人でも、おじいちゃん、やおばあちゃん、って呼び

かけられた時に、人生経験豊富で人に何か影響を与えることができるといったような、

本来の老人の価値について無視されることになるわけで、その自分の価値についての自

覚と誇りさえも奪われてしまうことになるわけだから、明日は我身の若者も中年も老人

の価値についてよく考え、老人に対する態度に敬意を忘れないようにしたいもんだ。




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