5/6のしゅちょう             文は田島薫

(ゆずれないことについて)

人はだれでも、自分の感性なり考え方に基づいて、色々な生き方をしてるわけだけど、

そういったものに真直ぐ、環境などからの抵抗もなく、思う通りにできてる、って人

の数は多くなくて、ほとんどの人々は、不本意だったりするような事も例えば、生活

のために妥協せざるおえない、って言って暮らしているのだろう。

仮に、子供のころからの夢だった職業に就けてたとしても、他人とかかわる社会環境

の中では、いつも自分の思う通りに物事を進める、ってことは難しいわけで、いつも、

どっかで、妥協、ということがついて回ることになるわけだ。

で、青年の時、どんな素晴しい理想を持ってても実社会に出た後は、世の中はそんな

甘いもんじゃない、などと言っては妥協し続ける生活をするようになる。

そうは言っても、妥協がすべていけない、って言って、個人がそれぞれ勝手なことを

主張しあってるだけで、だれもが一切協調しようとしなかったら、仕事上でも、日常

生活でも、社会関係は混乱するだけだろうし、常識に照らして、目的に一番有効だと

思われる判断に、多少自分の考えと違っていても妥協することは必要だろうし、人と

かかわり、人の意見も聞き、自分の意見と比べたり、それを熟考することによって、

自分の考えの不足や間違いに気づいたり、認識力の限界が広がったりするわけだから、

自分の自分の、ってばかりじゃナンセンスだと言う事はもちろんのことだ。


どうしても自分の感性や考えを最大限に発揮したい、って考えるなら、芸術家が一番

いいんだけど、それだって、商業的なものになると、自分がこうしたい、って言って

も、それじゃ売れない、などと外から言われることがあって、それはたいがい、前例

がないため、前例によってしか判断できない芸術的感性を持ち合わせない人物による

意見が多く、それは作品の核になる本当にクリエーティブな妥協すべきではないこと

って場合がままあり、そこでは芸術家は決して妥協してはいけないのだ。


芸術ではない場面ではどうか、よくあるのが、理想と現実のギャップ、理想ではそれ

が将来にわたって世界や人々の福祉に役立つことなんだけど、現実的に自社の利益を

考えると環境破壊する別の事業の方が優れてる、って場合や、理想では、その公共事

業によるダムの建設による効用よりも自然破壊の弊害の方が多いばかりか、莫大な費

用の出費は、ただでさえ累積している財政赤字を増大させて、国民の税負担も増す弊

害があるので工事取り止めした方がいいのだけど、現実には、すでに20年も前に計画

され、予算も通っていることだし、遂行することによって省庁の機能も生き、関係者

やファミリー企業などの仲間が経済的に潤おって感謝される、ってような場面、それ

はどっちの場合も、そこに立ち会っている人物ならどんな反対にも怯まず、理想の方

を主張するのが、本当に誇りの持てる「仕事」ってものだ。

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