●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんが先日行った旅行の旅行記連載最終回です。



大連みやげ話

カメラも言葉もいらない


私は大連旅行中、人の表情や気持ちの動きに敏感になったような気がする。これは言葉が

通じないせいなのかもしれない。

例えば大連駅の近くの歩行者天国の露天街でのこと。ぶらぶら歩いていたら骨董屋のおじ

いさんと目があった。おじいさんは古老の威厳に満ちていてちょっと憂いをたたえた目を

していた。目の周りの細かなシワや少しへの字の口元やアジア人特有の褐色の肌に懐かし

さのようなものを感じる。からだ全体が私に何かを語りかけてくるような気がした。

私は吸い寄せられるように近寄っていくと、おじいさんは眉を大きく動かし目に光が宿り、

どうぞ見てくれ、とばかりに両手を開く。商売体勢に入ったのだ。私があれこれ品定めを

している間、きっとひやかしか目利きかを観察しているに違いない。私の方も店の品揃え

から買っても信用に足る店か、店主の態度をすばやく観察する。お互い無言の水面下の駆

け引き、というのは大げさかもしれないが、この間何者か、信頼性は、性格は、利害はな

どたくさんの情報が交錯しているのだ。そんなとき言葉がないぶん、余計感性が深く濃く

なった気がする。

似たようなことはカメラにもいえる。

今回私はデジカメを持っていったのだが、うかつにも旧ロシア街で盛大に撮りまくったら

電池が切れてしまった。もう1台のフィルムカメラでしのいだが、24枚撮りなのでやたら

と撮るわけにはいかず、ここぞというときに限られた。カメラなしの旅というのは不安な

気持ちになるものだが、帰ってきてあることに気がついた。意外と記憶が鮮明なのである。

203高地から見た旅順港の意外な遠い距離感や塹壕の草いきれ、また老虎灘公園での凧揚

げに興じる人の顔、子供のはしゃぐ声、または雑踏で老人の弾く二胡の哀愁に満ちた音色、

などなど。カメラでは撮れない記憶が残る。

記念撮影と称して、ろくに状況も観察せずにカメラのレンズを通してばかり見ていると、

なにか重大なことを見落としてしまうことがあるのではないか。カメラに収めたという安

心感が感性を鈍らせることはあるまいか。

今回の旅で私はカメラも言葉もないときほど心に響くつぶさの記憶がよみがえるのを味わ

ったのだった。 (大連シリーズ終わり)


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