ぼけのたわごと             文は上一朝(しゃんかずとも)


大変お待たせいたしました。
大好評だった酩酊放談のシャンせんせい、
装い新たに復活しました。


ココアの調                            

浦和には 過ぎたるものが二つあり 浦和レッズに調神社。

過日、盛にして大なるニューココア(クボセンセイ命名)の花見の宴が浦和市の調神社境

内でおこなわれた。

この、調神社という所は地元の人にとって自慢の社である。なにが自慢かというと、その

呼び名にある。調と書いて(つき)と読み、「つき神社」とか「つきの宮」と呼ぶのが正

しい。これを、「ちょうじんじゃ」、とか、恰好をつけて「しらべのみや」なんて言おう

ものなら、彼らは、クックックともイッヒッヒともつかない嘲りの笑いで迎えてくれる。

調神社は、いまさらよそ者がとやかく言うことではないが、昔々その昔祟神天皇が伊勢神

宮の斎主倭姫命を租・庸・調の内の調をふんだくるために遣わした地に創建されたのがは

じまりとされている。では、なぜ調を(つき)と読むかというと、古語では「つき」と読

む。御調物(みつきもの)の「つき」である。これも地元のお歴々は周知のこと。じゃあ、

みつぎものなら「貢物」じゃないのかという疑問をぶつけると、「御調物」は神(古代政

権では、神と為政者は近かった)に捧げる神聖なものであり、貢物は、時の政権に服属儀

礼として差し出すもので、「議員、役人諸侯が大好きなもの」、という返事が返ってくる

のだろう。

また、境内には兎の彫り物や絵が多数ある。これは時代が下ってから、「つき」と「月」

をひっかけて、月を祭ることを始め、それなら月の使いであるところの兎をかざろう、と

なったようだ。

本論に入ろう。

この花見が散々であったのは先の「昨日の日記」に詳しいので詳細はそちらに譲る。さて、

散々の原因はなにかというと、主催者の読み違いにある。

花見に必要な飲み物を各自に割り当てて持ち寄ることにした。これは考えてみれば、「調」

である。しかも、場所が調神社では定時に集まるわけがない。古の昔から税を喜んで払う

人はいない、という訳で、日本人が大好きな“とりあえずビール”が最後にくるはめにな

ってしまった。(惨めだったなぁ〜)

たったこれだけのつまらない事を書くためにずい分勉強をしてしまった。しかし、収穫も

あった。滋賀県に調宮神社というのがある。こちらは「ととのみや」と読む。無事租税が

集まって、「調」が調ったという意味合いでこう呼ばれたのであろうか。

その意味で言っても、ココアの「調」は、調わなかった。


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