●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
今回のもどきさん、見る側と見られる側ついて語ります。


電車の窓から

横浜から東急東横線を使って渋谷に出るには二つの川を越えなければならない。鶴

見川と多摩川だ。二つとも大きな川で河川敷も広く、ここにさしかかるといっきに

視界が開け、空が大きく広がり、私の好きな風景である。

電車のつり革につかまりながらまず空を見る。空の色、雲の形、天気はどうなるか。

目線を落とし川を見る。水量はどうか、流れはどうか。電車はゴーゴーと音をたて

てたちまち通り過ぎる。異常がないことを確かめると「すべて世は事もなし」とい

った気持ちで見慣れた景色を後にする。

やがて多摩川を渡ると急に家が建て込んでくる。都会が近い。線路のすぐそばに家

があったり、ビルが建っていたりする。

線路は高架になっているのでビルの2階のダンス教室が丸見えである。男女が手を

組んで踊っている姿が映画のワンシーンのように見える。美容室では美容師が客の

頭を懸命にセットしている。会話が聞こえてくるようだ。

個人住宅の窓が開いていて中が丸見えのときもある。住人が部屋でウロウロしてい

るのが見えて、なにか他人の家を覗き込んだようでドキドキする。

私はだんだん不思議な気持ちになる。自分はこうして電車の中で突っ立っているだ

けで、さまざまな世の中の日常を観察している気分にさせられるのだ。先程の「す

べて世は事もなし」といったのどかな心境は消しとんで、この広い世の中にさまざ

ま営みがあって、喜怒哀楽が生まれているという思いにとらわれる。電車という空

間から一方的にそれを俯瞰している不思議さ。

電車は猛スピードで走っているからあちら側からこちら側は見えないのであろう。

そんなことより建物の中にいる人々は電車は年中通っているので、ひとつの見慣れ

た風景として電車になんの関心も寄せないのであろう。

あちら側もこちら側も日常なのに、走る電車の中から見ているというだけでこの隔

たりはなんなのであろう。あちら側は無防備で、こちら側はガードされている立場

の違いからだろうか。一度あちら側の窓に立って、電車の窓をのぞいてみたくなっ

た。


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