6/25の主張 文は田島薫
(人づき合いの妙について2)
友人はどういう条件でできるか、って、自分の経験で思い起こしてみると、双方
の日常生活の進行を快い刺激でサポートし合いつつ、物事を相互に共感できる部
分を持ち合わせていることを双方が感じた場合、ってことになるだろう。
そうして、お互いの興味が共通するテーマで鑑賞したり話し合ったりするのなら
多少意見が違っても、楽しくつき合えるだろう。
でも、結局友人同士だとしても、別な人格なわけだから、なんでも興味が一致す
るというわけにはいかない。
友人関係が長くなってくるとそのあたりの錯覚が出て、自分が興味持ってるもの
は相手もそれに興味を持つことができるはずだ、って、思い、熱心にすすめ、そ
れに応えてもらえないと、寂しく感じたりすることがある。
人は漠然と生活してるとしても、世に溢れる沢山の情報の中から自分が興味ある
ものを無意識に選択してるもんのわけだから、それから外れたものに目を向けさ
せるためには、相当なテクニックを要するのだ。
もし彼が、潜在的にそれに興味を持つ素養があるなら、すでに少し興味を感じて
いるはずで、ちょっとのテクニックで向かせることもできるだろうが、たいてい
は、そうじゃないので興味を持ててないのだから、その彼の感性の在り方にさえ、
問題提起して誘導するぐらいの技がいるのだ。
で、私の意見としては、それはつまらないことで、興味が違っていたら違ったま
まで、その違いを容認する気持でいた方が相互理解の早道だ、ってことなのだ。
少なくとも、ある部分で共感し合えるという宝を持ち合っているのだから、それ
ぞれの感性の違いを認識できた方がおもしろいではないか。
そうやってゆったりお互いを認め合ってると、ある日、あんなに苦労して理解さ
せようとしてうまくいかなかった事に、相手が夢中になっている、ってことに気
がつくこともあるのだ。
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