1/2の主張 文は田島薫
(正直さと優しさについて)
友人同士でも、言葉のやりとりなどで、お互いに怒りを感じて、喧嘩のような事に
なることは多々あることで、私が20代ぐらいの時は、乱暴な言葉の吐き合いなんて
日常茶飯事で、大喧嘩した後でも、そう簡単に友人関係解消なんてことはなかった
んだけど、喧嘩的状況を怖れて今の若者たちは、面と向かってはあまり本心を表現
しない傾向がある、って聞いたことがある。
中国や韓国に体験留学のようなことをした若者が現地の学生から、戦時中の日本軍
の蛮行などについて、怒りの批判をされて、言動に含まれる感情そのものに気押さ
れ、とにかくそういう状況から逃げたい、って感情だけが働き、それに対しての意
見を表現できず、その理由を、自分は平和主義だからだ、って言った、って話は、
象徴的だ。
確かに無闇に喧嘩ごしの物言いをし合う、ってことが相互理解に一番いい方法だと
は言えないだろうが、正直な気持を表現したら、結果的に感情が高ぶってしまった、
ってことは自然なことなのに、それをさけるために、表現をしない、って言うんで
あれば、それは本末転倒、ってもんだろう。
いじめ問題なんかでも、言葉に傷ついた、ってことで、その言葉を吐いた方が一方
的に糾弾される傾向があるけど、確かに人を理不尽に侮蔑したり傷つける言葉は、
批判されるべきだけど、問題はそれを口に出すか出さないか、ってことではなく、
口に出さなくても心に思っていれば、結局は同じことで、わからないうちに、その
理不尽な感情を持続したまま「悪行」行動に進んで行くこともありうるわけで、そ
れだったら、きっちりわかる形で表現された方が、問題はクリアーになるはずだ。
とにかく、そういった本質を隠ぺいした、エセ優しさ表現論を、正当なものとして、
広げようという風潮が、陰湿ないじめ表現なり、表面的言葉にさえ傷つく、か弱い
感性を蔓延させて行く原因にもなってるんじゃないかな。
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