3/20の主張 文は田島薫
(常識の落とし穴について)人はだれでも、たいてい自分はけっこう常識ある人間だと思ってるところがあるよ
うで、世間話の中でも、常識では考えられないことだ、だとか、そんな非常識な、
とかよく口に出し、その時、だれもがちょっと涼し気な顔つきをする。
でも、その常識ってものの正体はなんなんだ、って考えてみて、それが、一般の人々が普通に持ってる知力や判断基準だとすると、ある集団の中でそういったものが
歴史の流れの中で知らずに形成され、だれもが、個人個人の発想や思考を経ずに、
それを当り前のことと身につけて行けるわけだから、自分の頭でものを感じ考える
ことをしなくても、人のやる通りに合わせてればなんとなく普通らしく生きて行く
ことができ、人の批判だってできる盾、ってことになる。
で、それは結局ひとつの集団の都合で形成される価値判断でもあるわけだから、他の集団から見たら、常識が非常識になることだって多い。
卑近な例でいえば、食事のマナー、ナイフフォークで、ってのがあれば、方や、手
づかみが礼儀って国もあり、残さず食べなければいけない、って国もあれば、残す
のが礼儀って国もある。
日本などは、封建体制の維持に都合のいい、葉隠れ、のような武士のための礼儀が庶民にも、良いものと信じられていて、例えば、主君を一度決めたら、変えずに一
生尽くす、とか、一度口に出したことはニ度と修正しない、とか、一度信じたら、
それを疑わない、とか、現代では不合理だと思えるものでも、人々のこころの底に
価値感として残ってるようだ。
だから、自分の頭を使って考えることをしないで生きて来た人間は、そういったたまたまその集団のルールでしかなかったものに、無意識に従属してしまっているこ
とに気がつかないまま世界を判断しようとする。
最近の例で言うと、安倍官房長官が、日中戦争が日本の侵略だということについて、侵略というものがまだ学術的に証明されていない、などと、自分の頭で考えれば、
あきらかに非常識とわかる、どっかから聞いてきた「どっかの集団の常識」を涼し
気な顔で言う、とか、あきらかに詐欺行為をされたのに、その加害者を信じている、
って言ってその彼の人権を守ろうとする、民主党の若手議員などの、非常識さは、
妄信した常識の逆転した姿だ。
ものを考えない人々にとって常識は便利なものなのだが、新しい世界を創造して行こうとする人々にとっては、それが大きな障害になる場合があるのだ。
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