6/26の主張             文は田島薫



(教育の順番について)

もう、当り前のことなんだけど、人が生きて行く上で、生きて行く、ってことより

大事で、命を捨てたり、他人の命を奪ったりしてもいいほど価値あるものなんてな

いし、生き物にとって、生きて行くことそのことが最大の価値なのだ。

志しの貫徹のためにだれかを殺す、とか、死ぬ、とか、ってことは、例えば社会変

革のためであれば、それはひとつの敗北や悲劇的手段なのだ。

人の生きる意味を関係性の中での個々の学習、ってとらえると、すべての社会の関

係性の中での不具合がすべて個々が生きることの活力の源泉である問題提示になる

はずだし、世界にあるものはみんな必要だってことなのだ。


先日も高校生が教育熱心な親の拘束から逃れるために家に火をつけ、家族を殺した。

そんなにいやだったら、勉強したくない、って反抗でも、家出でもなんでもできそ

うなもんなのに、強制される勉強そのものがあたかも絶対的な価値があるものかの

ように考える親とそれを真に受ける子供の間に、架空の魔物が出現したのだ。


人々が生活して行くのに必要で十分なものは、生活の場での周囲の人々同士の思い

やりや、喜びの共感、といったもんだったはずなのに、今や、その逆、となりの家

を負かして、なんとか自分とこの方が経済的にも社会的にも上になりたい、ってな

ことばかりだれもが考えているような感じだ。

証拠に、中学だって高校だって、なんとか人よりうわべを上になれるよう、って努

力することだけが、人生の最大の目的のような教育を続けている。

そんな教育を受け続けた子供たちは、他人へのこころからの思いやりなどを感じる

ことができるようになるだろうか。

そして親になったらなったで、自分がされたつらい教育の仕打ちと同じことを無意

識のうちに子供に行う。

世の中、人と人はこころを交わし合う関係より、競争する敵同士の関係のよう、小

学生は知らない大人に声をかけられたら、無視して逃げるように指導される。


人と人との間に信頼感、って感情が薄くなって行く今の教育は、いいんだろうか。

勉強を厳しく教えることはいいけど、勉強ってものの価値は外から強制された時に

消える、ってことと、勉強は、生きる、ってことに従属するだけのものでもある、

ってことを、まず今大人のわれわれがもう一度自覚するべきなのだ。




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