2/20の主張 文は田島薫
(芸術の本質について)一般の人々は、芸術って、音楽や、絵画や、彫刻といったもんで、普段の生活の中
では、それは鑑賞する対象として考えてるだけで、それの本質、なんてことを考え
たりはしないだろうし、そんなことをするのは無意味だと思うかも知れない。
自分の感性のおもむくまま、いいと感じたものをいいと思い、そう感じなかったも
のは無視すればそれで生活に支障はない。
しかし、文化というものが、一般の人々(ここでは芸術家と呼ばれたり自称する人々以外の人々)の理解と支持によって、維持、発展されるものだとしたら、少し理
解することも、無駄ではないだろうし、自分の気づかなかったものが見えて来るか
も知れないから、私なりに考えを述べたい。
簡単に言うと、芸術の本質は、世界や人間の有り様から受ける様々な認識、情感、といったものを、「創造的に」表現するもの、って言えると思う。
「創造的に」ってことは、芸術の命で、誰かが先にやった手法や発想を真似ただけ
の作品は本当の意味の「芸術」ではない。
もちろんそこになんらかの作者独自の解釈なりが入り、新しい価値がつけ加わった
なら、芸術と言ってもいいのだけど。
芸術家は常に、自分だけの表現を模索しているもんであって、だれかの真似をしている時は、当然だけど彼の技術勉強活動であって、創作活動ではない。
一般の人々の多くは、創造というものがわからない。たいてい、芸術鑑賞して、彼らがいいな、と感じるものは、まず、絵なら、写実的
に描かれた風景画がいつもトップ人気だし、音楽なら、メロディーがわかりやすく、
バランスよくアレンジされたヒット曲がトップ人気。
それらが何度も繰り返されて使われた手法、技術によって作られたものでも問題な
い、と言うより、その方が安心して好きになれる。
しかし、彼らが創造的なものを好きになることもある。それはどういう時か、って言うと、一般人の中でも芸術的感性を持ったリーダーがそれを絶賛し、それに追従
する人々が増えていった時だ、人が人を呼び、連体意識も芽生え、ひとつの芸術が
市民権を得た時だ、だから、いつもそれは、創造的作品が生まれた時より、何年も
後になることになるし、いつまでたってもそれが得られないこともある。
一般人は自分たちがかつて見聞きしたことのないものを前にすると、どう感じていいのかわからなくなり、否定的感想をもらしてしまいがちなのだ。
自分がいいと感じてきたものと違うものはわるいもの、って短絡的に結論をだして
心の平静と安定を取り戻そうとするわけだ。
本当は芸術の一番大事なところを否定しちゃうわけだ。彼らにすぐわかって、安心な判断基準は、有名作家による、とか、歴史的に価値を
認められているとか、前に好きだったものと似ているとか、技術のうまさに問題な
い、とか言ったものなのだ。
芸術家は、自分の表現したものが、うわべの技術のうまさが出てたり、お馴染みの雰囲気になってたら、ボツにして、ギクシャクさせたり、より下手にしたり、気持
にひっかかるような表現を模索し続けるものなのだ。
例えばマイルス・デヴィスがギタリストに、始めてギターを弾くような気持で弾け、って言った意味を理解して、うわべの体裁に惑わされず、子供のように、作品その
ものに気持を入れ込めれば、違うものが見えて来るはずだ。
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