●新連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
今回は自由、って、とっても不自由、って話。



無職

仕事を辞めて1年半くらいになる。ある日突然腰痛から坐骨神経痛になり歩けなく

なった。タウン誌編集はフットワークが命だ。取材に行けないのでは使い物になら

ない。不本意な辞め方だった。

初めの半年はこのまま歩けなくなるのではという強迫観念にかられ、鍼よ、マッサ

ージよ、ペインクリニックよ、と治療に明け暮れた。

その甲斐あって坐骨神経痛は回復し、元のように歩けるのだが、現金なもので今度

は仕事を失った傷が深い。これは私の偏見だが働かないと怠け者のようで肩身が狭

いのだ。

書類に職業欄があると、無職と書くか主婦と書くか一瞬迷ってしまうことがある。

職業とするほど主婦の仕事はしていないし…無職とするのは、無為に過ごしている

ようなイメージがあってわびしいし…やっぱりこれも偏見かもしれないけど…。

無職というのはなんでも自分で決められる自由があり、お金はないがたっぷり時間

があって“管理”の対極にある。これが良さそうでいて難しい。レールの敷かれて

ない道をいくようなもので、毎日のスケジュールを自分で決めて道を切り拓いてい

かなければならない。一日中ゴロゴロしていても許されるわけだが、貧乏性の私は

ちょっと後ろめたい。こういうときは主婦に逃げ込むに限るが、結構自分で自分の

時間を管理するというのは結構シンドイのだ。1週間びっしりお稽古事で埋め尽く

している知人なんかをみると、その気持ちがよくわかる。世の中自由にマイペース

で生きられる強い人間なんてそれほど多いとは思わない。


近頃出かけるとき時計を忘れることが多くなった。携帯があるからという気の緩み

もあるのだろうが、以前は家の近くで気がついたなら走って取りに帰ったものだ。

今はそんなことはしないで平気である。

“時計のいらなくなった自分”

この事実はまさに現役世界と私とをわずかにつないでいたロープが
切れてしまったことを思い知らされる。世間から必要とされなくなった寂しさ、世

の中から取り残されたような孤独感がそくそくと湧いてくる。だからといって過去

に活躍していた思い出ばかりに浸るのはあまりにも後ろ向きだし、将来の有職のた

めだけに行動を起こすというのも現在を否定しているようで嫌だ。未来に目を向け


るというのは前向きで聞こえはいいが、今の自分を楽しめないばかりか“一寸先は

闇”ともいえる人生の設計に汲々としているのも馬鹿げている。現在の瞬間瞬間を

楽しんでいけば自然と充実した過去が後ろに連なりなんとか未来につながるのでは

ないかと、無職の私は考えている。


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