8/21の主張             文は田島薫



(肉親の勘違いについて)

最近のわが国はどうも暮らしにくい世の中になってきたようで、あちこちで生活苦

や、介護疲れや、無理な受験教育やなんかで、自殺したり刺殺したり。

何十年も苦労して育てたり介護したりしたのに、ある日、発作のようにそんな事件

が起きる場合がある。


私の率直な感想としては、そういった事件は、けっきょく、肉親関係の責任の取り

方の勘違い、から来てる部分が大きいんじゃないかと思うのだ。

そういった耐えてがんばらなけりゃならない境遇になった時に、本当はできない、

って言って逃げたとしても、却って次のもっと有効な解決策への道が開けるかも知

れないのに、まじめな人はすべて自分の責任で処理しようとして、そのあげくのは

てにへとへとになり、このまま生きてることが本人やまわりへの迷惑になるなどと、

勝手に結論を下したりする。

(誤解を招くのを怖れずに言っちゃうと)本人が死ぬのは「まだ」いいとしても、

(肉親だとしても)別の人格である「他人」に対して死んだ方がいい、って結論づ

けちゃいけないだろう、例え、気弱になったり気を遣った被介護者が死なせてくれ、

って言ったとしても。


いろんな事情や関係性の形があるのに、こうやって十束ひとからげに、意見言って

ると、訳がわかんない、って言われそうだけど、どういうもんでも全部に共通する

問題点があるんじゃないか、って感じてるもんで言ってるんだけど、要するに、肉

親関係って、知らずにその存在を自分と同一化させて、自分の分身と感じたり、自

分が親だったり夫だったら、子や妻が自分の所有物かなにかのように錯覚しがちだ、

ってことだ、自分の意志ひとつで存在を許したり消したりできるものとして。

本当は自分の存在だって、自分のものではないんだけど、それに気がつかないばか

りか、下手すると、馬鹿な妄想で自分を悲劇の英雄のように錯覚したり。


で、馬鹿げた事件が起きると、たいてい世間の同情が集まって、あの人はがんばっ

てやむにやまれずそういうことになったんだ、ってことで片付けられることが多い

けど、誰にだって、自分や人の命を奪う権利などあるはずはないのだ。


じゃ、にっちもさっちも行かない状況はどう打開すればいいんだ、って言うなら、

こう言うと、そんなことできっこない、って言う人が多いだろうけど、徹底的に公

的支援を探ってみたり、なければ仲間を募って要求運動してみてもいいだろう。

とりあえずそういう境遇の者同士の相互支援ってことだってできそうだ。

それもできなかったら、とりあえず世間に、助けてくれー、って言ってから逃げ出

す方がどれくらい世の中をよくする得策かわからない、ってもんなのだ。




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