9/5の主張             文は田島薫



(思い込みについて)

テレビで聴覚障害児の治療に携わってる医者の話を観た。

自分の子供がそういう障害児だとわかった親はたいていとまどってしまい、

どうしていいかわからず悩み、彼をサポートすることだけに意識が行って、

一生懸命世話をやくのだけど、肉体的にも精神的にもへとへとになり、相談に

訪れる。

医師がその親子のやりとりを観察していると、やはり聴覚障害児だということ

で、母親は子供に話しかけることをせず、困っていて、普通の親子の愛情らし

いものを通わせることができにくいように見えるらしい。


医者によると、聴覚障害児といっても、完全になにも聴こえないことは少なく、

たいていはわずかだけど聴力はあるのだそうだ。

そして、子供は、親の言葉の意味がわからない段階から、愛情の波動のような音

ととして感じているもので、これが子供の成長には大切なものらしい。

聴力障害者といってもこういった波動は感じることができ、もちろん彼らにも、

大切で、これを最初からどうせ聴こえないから、って与えることをしなかったら、

不幸なことなのだ。


ある親の例ではそんな観察の中で、親が一度だけ子供の顔をのぞきこんだことを

医者が指摘して、それがとてもいいことだ、とほめたそうだ。

聴覚障害児だから、ってあまりそのことだけを意識しすぎず、普通の気持の表現

を忘れなければ、そういう親子の間にも気持のいい風が流れ合うことを、実際の

そういった子供の誕生日ビデオ記録で、子供の満面の笑みが証明していた。


われわれが当然のこととして思い込んでいることに、けっこう間違いがあるもの

で、例えば、老人は体が衰えているのだから、できるだけ動かないで済むように、

色々世話をやいてやるのだ、っていうのも大分逆効果だってことも常識だ。

先日も90才の老人がばりばり農作業をしてるのをテレビで見た。

それは例外な人だよ、って言う人もよくいるけど、全然例外じゃないのだ。




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