5/9の主張             文は田島薫



(指導者の勘違いについて)

107人もの死者を出した尼崎のJR線脱線事故後もJR西日本の社内体質の問題点

などについての続報が2週間たっても途切れない。

事故当日にボーリング大会や宴会をやった複数の職員がいて、そのことに対し

指導部からの咎めもなかったらしい。

その割に、運転士がちょっと運行の遅れなどをすると、1ヶ月にもわたり身柄

拘束して、規則の書き写しや、反省文を1時間ごとに書かせるなど再教育という

名の罰を与えていた、と裁判中の元運転士が証言している。

再教育は客の命を預かる仕事の安全のためだ、って言ったとしたら聞こえは

いいし、それなら仕方ないかも、って思う人もいるかも知れないが、罰の理由

をよく聞いてみると、安全のため、ではなく、客の利便や迷惑をかけないため、

って建て前の、スピード優先で競合私鉄に負けない営業成績を上げる、ってこと

だけなのだ。


事故を起こした運転士は手前の駅でオーバーランをし、それで遅れたら後で

とんでもない罰を受けることを恐れて、スピードを出したのだ。

だから、その再教育そのものが、より安全を脅かすものになってたのだ。

命がけでもいいから早く着きたい、って客はあまりいないはずだ。


人は指導的立場に立つと自分の能力を勘違いしてしまうことがある。

自分は目前の人間に指導できる優秀な存在なのだ、自分が判断することは一応

正しいはずで、受ける側は何でも従う義務があるのだ、じゃなければ、判断力

のない方が勝手なことを考えて、規律が守れなくなるからだ、って。


で、反抗する者に対して非常に腹を立てるわけだ。

その指導的立場はなんの目的があって、そのために必要なより合理的で効果的

な方法はなにか、って考える余裕や、現在の指導目的そのものに問題はないか、

反論する人間の真意はなんなのか、っていった想像力も使えず、狭い視野のまま

ただ指導的立場を意識するだけになってしまう弱さを人は持ってるのだろう。


人は指導的立場になった時、「本質的謙虚さ」が必要なのだ。




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