2/21の主張             文は田島薫



(児童教育について)

17才の少年が、小学校時代いじめに会った時先生が助けてくれなかったから、と、

恨みを晴らしに母校へ押し入り、無関係の教師を刺殺した。

当時の仲間などがいくら考えてもそういった事実に心当たりがない、っていうこと

だけども、子供は、特に人間関係に無知のため、他人から見れば何でもないことに、

深く傷つくものなのだから、彼にとってはそういう事実があったのだろう。


子供は快・不快の原則で行動しながら、人と関わり、物事は自分の都合だけで動く

ものではなく、それには色々な意味があって、自分が悲しく、不快に感じた事でも、

決して、ただ自分をいじめるためだけに行われるのではない事、世の中には信頼

できる人がいるのだ、という事を、特に大人から学んで行くものなのだ。


そういった、人間に対する“信頼”を学ぶ大事な時期である小学校時代に、加熱

する進学競争だけに集約される人間関係が家庭でも学校でも行われているなら、

非常に不安なことだ。

心を許し合えるような人間関係を持てない子供たちは、表層的な友だち付合いをし、

彼らの気晴らしのためのいじめも出て来て、やられたものがより弱い者に同じ行為

をするような悪循環も生まれる可能性も高いだろう。


文部省がゆとり教育を提唱して進めた結果、学習の遅れが出てそれのフォローが

返って大変になって来た、ってことで、それの見直しが始まっているようだが、

私に言わせていただければ、はっきり言って、小学生に机上の詰め込み教育など

ほとんど必要なくて、もっと“遊ばせる”べきなのだ。

そんなこと言ったら、受験に受からないだろうし世界の学力レベルに遅れをとっ

ちゃうだろ、なんて言われそうだけど、そんなことは“大したこと”じゃないのだ。

大体、ただふるい落とすだけの目的で作る愚にも付かない瑣末なテーマの受験問題

なんかができるためだけの勉強なんて単なる時間の浪費に過ぎない。

人間の成長にはその時代に非常に有効なもっと重要な学習があるのだ。

確かに、最低限、読み書き、計算は必要かも知れない、でもそれ以上のことのため

人や世界に対しての“信頼の実感”が、二義的なものでいい、のだろうか。


どんなものにも順番ってものがあって、きちんと基礎を築かなかったら、その上物

はとても不安定なものになるのだ。

そのへん歩いてる大人たちもみんなちゃんと基礎工事済んでるかどうか、お互い確認

し合い、反省し、今の子供の教育についてももっと考えてやろうではないか。




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