12/12の主張 文は田島薫
(愛と平和について)友人にすすめられて参加したブログで、ジョン・レノンの命日にあたる先週、彼と
オノ・ヨーコが提唱していた「世界の平和と愛をイメージしてみよう」、を1日や
りませんか、って提案があったんだけど、それに対し、愛と平和ってことだけに
ジョンを矮小化して欲しくない、って反論があったので、私は、愛と平和は本質的
真理なんだから、矮小化の表現はおかしいだろう、って反批判をしたら、そこのブ
ログは大騒ぎになった。
私の意見に対しては、愛と平和のジョンなんてヨーコとコマーシャリズムが彼の死後でっち上げたイメージで、愛と平和もあるかも知れないけど、クスリやセックス
や自分本意のミーイズムの方でファンの心をつかんだ部分が多い、って主張して、
そのことへの賛同者も沢山いた。
提案者は自分はただ愛と平和のイメージに賛成してくれる人だけ発言してくれれば
いいだけなのに…、って言った。
矮小化論の張り切りようはすばらしくて、だれもが、ジョンの歌をいろいろ引き合いに出したりして、ほら、愛と平和なんて歌ってないだろ、そんなのっぺりした言
葉でくくれないほど、ジョンは複雑で人間的だったんだ、ってことを長文で訴える
ので、私の言った主旨とずれていると思い、そうしなかったんだけど、私は心から
あやまりたい気分になった。
確かに愛と平和を常に意識して生活してる人ってまれだろう、私だって違う、人はまず自分のことを思い、できるだけ快適に生きられるように努力して、生活の過程
で人の存在も意識し、人を愛することや愛されることも知る、って段階を追って行
くんだろうけど、その過程は人それぞれ、なかなか人を愛したり愛されたりどころ
か、自分さえ愛せない人だっている。
他人の幸せを祈るってことは、そうとう気持に余裕のある人やある時にだけできる
ことだとすれば、多分世界の平和をイメージできるのは例えば自分と恋人や友人と
の愛と平和が実現した後のことだろう。
人は自分の生活やら、人間関係やら、愛やら、いろんなことと関わり、苦労し悩み、その中から希望を求めて行くものだということはだれでも知っている。
で、それの目的は?と考えてみれば、「自己の平和と愛の実現」のはずなのだ。
そして、自分が辛い思いを知っていればいるほど他人や世界の苦しみも感じたりイメージできたりし、その結果、次に、世界の愛と平和を望むのだ、矮小論者の言う
意味はジョンの表現テーマの多様性を指しているわけなんだけど、どの苦しみやあ
がきの表現も、まず自分に属すものだとしても、実は「愛と平和」の渇望が基本に
あるはずなのだ。
世界平和を望む気持をみんなで共有しよう、って表現は単純に感じるかも知れないけど、だれでもそんなに単純な感想で人生を生きてるわけじゃない、って、前提で
言ってるってことを信じ合った方が間違いは少ないだろう。
悩み試行錯誤し、ヨーコと会い、愛し合い、到達したから、はっきりそう表現した
のだ、「世界の人々が平和に暮らしてる情景を想像しよう」、って、それはブログ
の中でも、だれかが言ってたように、平和をクリエイトする一歩なのだ。
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