12/19の主張             文は田島薫



(理性の位置ついて)

私はこのコラムでいろんなエラソーな事書いてるわけだけど、決して読者の方より

自分の方がエライ、って思ってるわけじゃなくて、始まりは自分が感じてることを

吐き出したい、って思いだけで、それに共感してくれる人がいたらうれしいな〜、

ってぐらいのことだったのが、書いてるうちに、自分がこんなこと考えていたのか、

ってわかって、頭も整理されるし、気分が乗ってきちゃったわけなのだ。

だから、読んだ人が下らないって感じたら読んでもらわなくても全然かまわないし、

読んで、なるほど気がつかなかったよ、って思われたら、もうオマケが大当たり、

っていったとこなので、あまり、深刻に、ヤナヤローだぜ、って思わないでいただ

きたいんだけど、思われてんだろうな。


こういった文章って世間一般には、わかったよーなこと書きやがって、って嫌われ

ることが多いのは、ひとりで考えてる分にはその結果がその人の行動の助けになっ

たりするだけで、他人には見えないことのわけだけど、曲がりなりにも人に見せる

目的で文章にすると、読んだ方がなんだか説教されてるような錯覚に陥ることが、

原因じゃないのかと思う。


で、そういった考えそのものが、なんだか余計な事のように感じられて来てしまう

ことがあるんじゃないか、って感じる。

よく昔堅気の人が、つべこべ理屈を言うんじゃない、って言ったりするのは、かつ

て人々の暮らしは身分や職業が生まれた時からほぼ決められていて、日常生活も仕

事も、先輩のやって来たことをただまねてやって行けばなんとかなったからだろう。


ところが、現代のように文化的にも国際的にも複雑な制度や情報や人間関係をこな

して生活するには、いろいろなことを学ばなければならなくなったわけなんだけど、

実は、今の教育や日常生活において、とても大事なことが忘れられている。


それは、まさに自分の頭でいろいろ物事を考える習慣なのだ。

子供から大人まで、とにかく知識だけ詰め込むんだけど、自分で考えることをして

いない弊害が、社会現象のいろいろなところで出ている。

例えば社会と自分の関係などは、小さなことから大きなことまで、日常的に生活の

中から疑問を感じたりそれについて考え総括する力が必要なのだ。


それができないと、大人になっても自己中心的な発想や反応しかできないため、例

えば、人に害を与える不正にも鈍感になったり、怒りやすく、ちょっとしたことで

切れたり、落ち込んだり、ストレスに押しつぶされたりするわけだ。


だから、理屈ぽいことをどんどん考えて人ともどんどん意見交換しよう。

書くことも考えをすすめるのにすごく役立つのだから、妙な先入観は捨てよう。




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