5/10の主張 文は田島薫
(話の本質と表現について)国民年金未納三兄弟、って発言し、自分も増えた兄弟のひとりに加わった菅さん、
その矛盾に答えるのに、自分は意識的に未納をしたわけでないから自民の連中の
未納とは違う、ってことを、テレビ番組軒並み出演して弁解している。
しかし、自民の未納者だって全員意識してやったとはいいきれないわけだし、
ある意味ではそれら未納者がでることが年金制度のわかりにくさの結果である、って
平等に考え最初からそういう視点で発言してればいいものを、あんなに毒づいた事
言ってしまったために引っ込みがつかなくなったのだろう。
彼としては年金改革関連法案の与党との3党合意によって、ただ与党案に反対して与党に一方的に進められるよりも、より進歩的な年金改革に向けての審議に民主党も
参加可能になるからその方がいいのだ、と、未加入問題は年金問題改革のための、
戦略的発言であって、そのこと自体にはそんなに重要な意味はない、って思っていて、
そのことは自分の潔白を説明するだけでいいと考えているらしい。
菅さんの気持ちの中では自分は年金問題の本質はおさえているし、自分の未納問題も責められる必要がない、ってことをわかって欲しい、ってところなのだろう。
これはやっぱり、菅さんの表現力の欠陥の問題なのだ。だれだって、まず未納三兄弟発言と当人の未納の矛盾への説明を求めているのだが、
それは彼がしたような説明を求めているのでなく、あきらかに失言の部分をしっかり
認め、その失言の原因をはっきり認識し、説明なり謝るなり、し、それが済んでから、
年金問題の本質的問題提議なりをするべきなのだ。
それを、自分で播いた種を収穫もせずに、最初からその種のことは忘れてくれ、て
言うばかりか、未納三兄弟はそのまま悪くて自分は潔白だとばかり主張したら、
誰だって反感ばかり感じるだろう。
これは誰にでも起こりうる不足表現の失敗見本なのだ。われわれだって自己の都合ばかり見て発言していて日常的にやってることなんだけど、
少なくとも政治のリーダーだったら、被批判者に対しても、もう少し敬意を持って
緻密に表現していかないと、いくらいい考えを持っていても御破算になってしまうぜ、
といった、身につまされるなかなかわかりやすい反面教師だった。
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