3/15の主張             文は田島薫



(身分意識について)

世界の人類の歴史は原始共産制から、封建制の時代を経て、今や民主制の時代になった

といわれるが、現実的には、まだまだ個人の意識の中に封建制が残っているようだ。

民主制の元では、人々はだれでも自由で平等ってことになってるのだけど、知らず知らず、

人が人に等級をつけて見ているところがありそうだ。


当然だと言われそうだけど、例えば家庭では、父親、母親、子供の順位、外では、職種なり

会社規模、会社内では役職、病院なら医者、看護士、患者。


自分より上の身分と思われる者に対しては、これは便宜上のことで、ほんとに彼をえらいと

思ってるわけではないのだ、って感じながら、自分より下の身分と思われる者には、その

通りの等級だと考えているふしをよく感じる。


それは、例えば、家庭にあっては、自分の考えは思う存分表明し、同意をしつこく求めるのに、

目下と思われる者の反論を聞かないばかりか、口答えされたことに腹をたてたり、

仕事関係であれば、目上と思う者が乱暴な口の利き方や態度で、気楽に充分失礼を犯しながら、

目下だと思われる者からの失礼には本気で怒る、といったことでだ。


そんなことを言うと、いくら民主主義といって、人は平等だからと、わけのわからない者の考え

などを無制限に聞いていたら、日常生活も社会も成り立たない、と言われるに違いないが、

まさに、身分が上だと盲信した自分の考えが常に正しく、目下の意見はわけがわからないもの

ばかり、と感じる意識そのものが問題なのだ。


家庭にあっても、会社などにあっても、その組織を動かすためには、指揮系統といったものが

必要ではある、それは結局、決定権、といったもののことであって、だれもが認める大天才でも

ない限り、物事の解決過程で下からの意見をはなから拒絶し、独断で仕切っていったら、

その組織は破たんするはずだ。


決定権をゆだねられる能力というものは、他からの意見などを、普通人以上に受け入れ理解

できることが前提になるのであって、そしてその総括を他人に納得できるように説得できて

初めて、彼は組織のリーダーの役割を得られるのであり、それでも、身分が上がった、という

ことではないのだ。


自分の身分が高いので、独断でものごとを決めつけて、反論には乱暴な拒絶をする権利がある、

って考える立場と対極なのだ。


あなたが自分はだれかより身分が上だ、と感じていたなら、それには根拠ありませんぜ。




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