1/16の主張             文は田島薫



(えせ平和主義について)

韓国に留学した高校生が現地の高校生たちに日本の戦中戦後や総理の靖国神社参拝など

の行状についての批判議論を向けられて、仲間の日本人生徒たちはみんな押し黙った

ままだった、と新聞の読者欄に投稿されていた。

興奮して追求する韓国の生徒たちに何も言えなかった生徒のひとりは自分は平和主義者

だから、だと言ったそうだ。

これは子供たちの話だが、大人の日本人全体の縮図じゃないか、という気がする。


われわれは日常的な会話の中でちょっと議論が白熱すると、たいていみんなが困った

顔をし、まあまあ、などと止めるものが必ずのように出て来る。

ほんとに何か主張したいと考える人間がいた時、それを本気で聞こうとする者はほとんど

いず、彼だけがひとり取り残され、まあまあ、と表面だけその場がおさまるのだ。


こんなことをおたがいにくり返していて、人と人とがほんとに理解し合うってことが

可能だろうか。

一所懸命に何か訴えようとしている者にはその理由があるはずで、それを止めるんなら、

止める者が内容を全部わかっていることを訴えている彼に証明する義務がないだろうか。


例えば、われわれの日常の中では、何か失敗をして誰かに迷惑をかけた、といった場合

とにかく謝ることが重視され、いきさつなり弁解なりはすべて言い訳ととられ、それを

言うことは恥ずかしいことだ、といった刷り込みがあるようだ。


どうしても言い分がありわかってもらいたい時でも、それをしかけると、

咎められたり、止められたりする経験を子供の時からくり返して来てるのだ。


で、こころで充分に反省を熟成したり、させたりするひまもなく、口先でごめんなさい、

と言わせたり、言ってしまい、一般には表面上それで周りも済ましてしまう。


しかし、本当はどんなささいな事でもそれぞれのこころにひっかかる事は残って行くのだ。

韓国の生徒が責めるのは、自分たちの不満の気持ちを充分理解してもらいたい、という

気持ちと、反論があるならそれも理解したい、という気持ちのあらわれなのだ。

ただ口先のあやまり言葉を求めているのではない。


弁解をする者には言い訳と決めつけ、責める者には、ただ自分に罰を与えようとしている、

って感じてしまう日本人はまだ国際社会では文化的に未開発国ってことにならないか。

本質的な相互理解抜きで平和主義者、って言ってたら、ただのお笑いです。




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