1/19の主張             文は田島薫



(責任の取り方について)

静岡県の中学校でサッカーゴールが風で倒され、下敷きになった生徒が死に、それに

責任を感じた校長が自殺した。


サッカーゴールは地面に固定するように以前から教育委員会から指導が来ていたそう

だから、それを無視していたことになるし、そのことによって子供が死に、葬式で

家族の悲しみを感じれば、責任者である自分は死んでおわびをしたい、って考えたと

しても自然だろうし、死ねば責任の取り方がりっぱだ、と思われるかも知れない。


しかしそれだと、結果的には、過失によって2人の人間が死ぬ悲劇があった、

というだけのことで終わってしまわないだろうか。

校長の気持ちを考えると申し訳ない気がするけども、これは日本人一般の問題だ。


いくら校長が最終責任者だといっても、危険と感じていたら、日常的にそれを見過ご

していた他の教師たちにだって責任があるだろうし、校長が独断で強権を駆使していた

というのであれば、それに抵抗する義務が教師たちにもあるのだから、結局学校全体の

連帯責任なのだ。(だから教師も自殺すべき、と言ってるのではもちろんない)


学校に限らずどんな環境の中でもいろいろな矛盾なり問題を抱えていて、各自がそれを

改善する努力をするべきなのだが、どうも組織に属すようになると、自分ができるだけ

後で責任を追求されるような行動は人にあずけ、そういったことにはかかわらないよう

に考える風潮があるように私には見える。


校長だってまさか生徒が死ぬなんて予測していなかったはずだし、しかし、それが

起こってしまったのなら、反省を、自分の身の処置だけで結局は咎めを回避しただけ、

といったことをするのでなく、自分や自分の環境の本質的問題点を見定め、同じ過ち

の起きない環境作りなり、もっと積極的に未来の子供たちのためになるボランティア

なり、恵まれない子供基金への全財産の寄付なり、ためになることを本気で始める

ことによって、自分も死んだ子供や親も、もっと救われる、みんなが生きられる道が

あったのではないだろうか。


人はみんなが関係性の中で生きているとするなら、美談めいていて出口のない、

「死んでおわびを」はもうそろそろやめにして、みんなで少しでも現実をよくする

努力をしようじゃないですか。




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