1/27の日記          文は田島薫



家にじっとしていると、話題の元が新聞か本かテレビになってしまう。

それらから受取った情報なり考え方の共感する部分を、自分なりに、

再構成して、元からの自分の意見なのだといった顔で話すことが多いかも

知れない。

だったら、自分が自分として存在理由を主張できるような自分というものの

主体は何なんだと考えると、多分、情報を「いかに感受したか」という

ところに、だれでも個性といったものが出てくるのだろう。


(やっぱり)テレビで、5行詩詩人のなんとかさんが出ていて、人々が

自分からみんな去って行った時にそれに、悩でいたが、その理由は自分に

あって、そのことを認めた時に気持ちがすっと楽になり、会心の詩が

どんどん書けるようになったと言っていた。

また、一般人の詩グループの先生をはじめて引き受けて、詩をあつめてみると、

それぞれの人が、それぞれのおいたち、環境からのそのひとだけの詩を表現

していることに驚いたと、そして、別人である自分がそれらの詩に添削を

することはできなかったと言った。

で、駄作(自分にもあるのだと)には一言も触れず、いい時だけ誉めること

にしたと言った。

批評の王道はそれだろうと私も思っていた。

(人を批判することは楽しくて、私もよくやってしまうのだけど、)


要するに、だれでも自分というものをつかんだら、表現が可能なのだろう。


戻る