11/26の主張 文は田島薫
(政治談義について)他の世代のことはあまりよく知らないし、人にもよるけど、概して
私たちの世代(団塊の)はよく政治談義をする方じゃないかと思う。
しかし、どうも、政治批判なども自分たちの楽しみのためで、「鋭い分析ができる自分」のナルシズムやアピール合戦といった感で、
結局、酒の肴の余興と言った感が強いような印象を受ける。
意見は言うがそれによって、政治を変えることは不可能、自分たちにはそんな影響力はあるはずがないと考えているようだ。
例えば、けっこういい意見で話が一致した場合でも、同じ意見を私が首相官邸へメールで意見したと言っても、一言のもとに無意味だと
決めつけるし、そんなことはないと食い下がろうもんなら、気が変
なやつだというような態度であしらわれる。
そして、どうせ楽しみが目的だから、ちょっと議論が込み入ってきたら、もう、やめよう、楽しい話に変えようということになる。
(ま、私は楽しみが目的ではないと言いつつ、楽しんでいるのだが)
みなが楽しくないと言うならしかたないのだろうけど。
それでも、しかし、政治がシビリアンコントロールの時代だと言われるなら、
それは、われわれひとりひとりの意識から始まるのだ。
政治家が専門家でわれわれは素人は政治に口出ししても無意味だといった考えは変じゃないだろうか。
時には庶民が徹底的に議論することによって、問題意識も育つのだし、あらゆる機会に民衆の考えのレベル、批判を示す努力がまさに、
政治を制御するシビリアンコントロールの力なのだから。
それが楽しくないと感じるとすれば、それは「無力感」のせいでは。
念を押すが、私は自分がいい意見を持っていて、どうだえらいだろうと自慢したいのではないっ!(…んと、…それも少しあるが)。
誰もが当然のシステムとしてそういうやり方をすべきじゃないかと、
で、それはほんとは、すごく楽しいことじゃないだろうか、と、
私は主張したいのだ。