12/9の主張 文は田島薫
(嫌いな人について)
好き嫌いは誰にもあると思うし、利害や相性から嫌いな人ができても、
それは普通のことだろう。
しかし、はた目にはささいに見える理由で、ある人を執念深くかたきのように
嫌ったり、避けたりするようなことをする人を見ることが身近にもあるけど、
それはいかがなもんだろう。
私自身も一時的にはそんな気持ちになることもあるが、誰かをこころの底から嫌いで、しゃべるのもやだというようなことはない。
なぜなら、私の場合嫌いと感じて、その嫌いな理由がもし相手の言動や
行動が自分の考え方から見て、間違った「劣った」ものだと感じていたら、
その理由をはっきり伝え、反論があるなら聞きたいもんだといった気持ちが
いつも働くからだ。
そして、そういうしゃべる機会が与えられると、相手を嫌い続けることができなくなってしまうのだ。
だって、話すと、あまり好きにはなれないとしても、相手の考え方にも、意外に向こうの事情での理があることに気がついたり、
まれには、相手が否を認めたり、よく考えたらこっちの方が何か誤解していた
ことに気づくことだってあるからだ。
最悪の場合でも、結局相手の理解能力に限界があることに気づき、(向こうも
そう思っていたとしてもけっこう。)時間をかけてこっちの考えをつたえて
行こうといった意欲も出るし、そんな必要がなくお互いがめんどうならば、
違いを認めたまま放っておけばいいだけだし。
そして、そういった考え方をしてると実際に話さなかったとしても、「想像上の話し合い」だけで解ることも多い。
そういうわけで、私には「しゃべるのもいや」な人はいない。
唯一嫌いな人は、実際にしゃべろうとした時、こっちを勝手に何かに決めつけコミュニケーション無用と考え、実行し、全く耳を貸さない人だ。
そんな人もこころから嫌いというわけではない。
馬鹿な人だなとあわれむ、といったレベルの「嫌いさ」だ。
自分が絶対だと思わず、もっと話す努力続けようぜ!ブッシュくん。