3/22のしゅちょう
            文は田島薫

(短絡的糾弾、について)


太めの体型を個性として人気の女性タレントを、オリンピックセレモニーの時

にブタのキャラクターに扮してもらってオリンピッグ、ってだじゃれで遊ぶの

はどうか、って、企画集団のラインの中で気楽に言った演出責任者が、マスコ

ミなどで批判され、自ら辞任したんだけど、その批判に乗って、そうだそうだ、

とんでもない酷い男だ、って糾弾する輪に入ることに疑問を持たない人がいた

としたら、そっちの方が問題なんじゃないか、って私は思う。

だって、それを酷いと感じた人は、ブタは醜いもの、って決めつけてるわけで、

それをそのタレントに重ねることは可哀想だ、って感想になるからだ。

タレント当人は太ってることに引け目を感じてるどころか、誇るぐらいのつも

りなのに、可哀想と感じて演出責任者の発言を批判する人は、太ってることは

醜い、って言ってると同じになるからだ。

このブタ野郎、とか、ブタのように太って、って、たしかにブタを悪口にする

言い方はいくらでもあるんで、自然にそう感じてしまうのも仕方ないかもしれ

ないけど、こう言うと、なんておかしなこと言う人だ、って思われるかもしれ

ないんだけど、ブタさんがこの糾弾劇を見てたとしたら、どう感じるだろう、

って、おいおい、ずいぶん失礼な話じゃないか、ねこさんやくまさんにたとえ

られたらなんの問題もないのに、なぜ、おいらブタがそんなにたとえられた人

を悲しませることになるんだ、って。

食うだけしか脳のないブタ野郎、だとか、犬のようなご機嫌取り、だとか、腹

にずるいことを画策してるタヌキ、だとか、人をだますキツネ、だとか、悪い

たとえはたくさんあるけど、童話の可愛い子ブタや、賢い犬や、賢く善意のキ

ツネのたとえだってたくさんあるわけで、悪いイメージだけでその企画者を決

めつけて批判するのは酷、ってものだろう。

第一、身内だけのラインでの気楽になんでも言い合うブレーンストーミング、

での発言、ブレーンストーミング、っていうのは、たとえどんなにくだらない

ような発言も批判してはいけない、って前提の企画会議方式なのであって、だ

れもがリラックスして発言できる利点を持ったものなのに、それを外部に悪意

的に漏らす、ってことは本来あってはいけないはずのもんなのだ。

それでもその場で差別的に感じた人が気軽に指摘したら、すぐに反省して撤回

したらしいんでほとんどなんにも問題になるようなことではなかったはずなの

に、だれか世間からの批判を誘導しよう、って者たちの策略にわれわれは安易

に乗らないように自分の頭でものを考えた方がいいのだ。


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