2/22のしゅちょう
            文は田島薫

(哲学の楽しみ、について)


私は子どもの頃から、身のまわりの物事について、なぜなんだろう、って疑

問を感じちゃ考えるクセがあったようで、友だち同士がはしゃいでる中には

たいてい入らないで、外からながめては、何が楽しいんだろう、って考えた

りしてたんだけど、頭がいいわけでもなかったんで、私に何か言ってる先生

に、この人は何を言ってるんだろう、って理解できないで先生の顔をぼーっ

とながめてたりしてたんで、どうも知恵遅れだったようだ。

かと言って大人になって利口になった、ってわけでもないんで、なるべく不

要な発言などは控えるようにはしているんだけど、相変わらず、なぜなんだ

ろう、って考えちゃ、非常識なことを言っては他人に呆れられたりしてるの

はさほど変わってはいないかも。

昔、私と同年代の新人作家が、自分は物事の原理的なものに興味がある、っ

て言ってたのを聞いて、私もそうだ、って共感した覚えがあるんだけど、世

の中の膨大な情報をどんどん取り入れて、その知識を他人に披露することに

は全く興味がなくて、おおよそでもいいから世界の物事の仕組みをわかりた

い、って気分の方がずっと強い。

で、そういった傾向に一番近いのは、どうやら哲学、ってものらしい、って

わかったこともあり、もっとも、わかる前からそういった種類の本が大好き

でよく読んでいたもんなんだけど、じゃ、哲学について詳しいのか、って言

われて、実存主義やら構造主義やら現象学について質問されてもちゃんと答

えられないことがわかって来たんで、何十年も前に買ったのにきちんと読み

込んでなかった現代思想入門、なんてものを今読み返してるのだ。

もっとも、その現代哲学史的な流れの用語の意味などをただ憶えてもしかた

ないわけで、自分の現在感じている問題意識に沿って、それぞれの哲学者の

説を参考にしたりヒントにしたりしてると、世界の見方などが豊かになり、

思考や感覚のレベルが広がったり高まったような充実感を感じるのだ。

だれにでも同一に認識できる客観的対象としての世界があるのではなくて、

言語のような記号を介して個々がそれぞれの認識のレベルの中でそれをイメ

ージしてるだけなのだ、ってようなこととか、人々が当然の常識と考えてる

認識も、時代ごとの枠の中での価値観でしかなくて、時代とともにそれは変

化するものなのだ、といったこととか、に気がつくと、個々の考えなどは、

思いきり自由にしてみた方がいいのだ、って思えてくる。もっとも、そうし

たとしてもけっきょくお釈迦様の掌から出てはいなかった、ってこともあり

そうなんだけど。


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