1/4のしゅちょう
            文は田島薫

(短絡的推察発言の失敗、について)


人はだれでもたいてい、自分は他人の気持をけっこうわかってやれる洞察力

の持ち主なのかも、って思ってるんじゃないか、って感じるのは、ふだんの

人々の雑談の中で出て来るだれかの人物評価なんかでも、あいつはこういう

やつだ、とだれかが評価した場合、別のだれかが、そんなことないんじゃな

いか、こういうことなんじゃないか、ってそれぞれが自分の見方を絶対のよ

うに主張することがあるのは、けっきょくだれでも他人を評価をする時はた

いてい、自分がその評価される人物の立場の時に取りうる態度を反映してる

んだ、ってことに気がつかないからなのだ多分。

私もこれを知っていながら、よく勝手な推察を他人にしてしまってる時に、

率直に、私はそう感じてないのだ、って言ってくれる人によって思い出す。

他人の評価を含め、すべての物事についての感想や総括は、自分の中では一

貫しててつじつまや合理性を実感または錯覚して思いこんでるため、前述の

物事についての認識力に浅はかな自信を持ってしまうのだ。

新聞の読者の声、といった日常のできごとに関して意見を言ってるのを読む

と同じことを感じるんだけど、たいてい、その声や主張は間違ってはいなく

て、常識を持った人々はだれも共感するだろう、ってようなものばかりなん

で、私がここで言うことは余計なことにしても、その会話の相手のおろかさ

にも、一理があるんじゃないのか、って私自身のおろかさを照らして同情的

に感じたり、そりゃ、その発言はたしかにおろかだ、って思ったりする。

先日の例では、母親が幼い子どもを仕方ない事情で早朝に外出に連れ出し、

バス停にいると、どっかの婦人が、こんな幼い子どもに可哀想だ、って言っ

た、ってことにこっちの事情を知りもせずに、って悲しかった、ってような

話だったんだけど、はじめ、私もその可哀想だ、って言った婦人に、ばかば

かしい決めつけをする失礼な女性だ、って感じたものの、その婦人の立場に

なったら、思わず出た正直な感想だったんだろう、って思えば、軽はずみな

発言を批判したくなると同時に、余計な意見だしおろかかもしれないにして

も、悪い人じゃないことはわかるのだ。

もう一例は、中年女性の妹が急死した時に電話してきた知人が、突然で驚い

たことと、若いのに可哀想だ、って感想の後、コロナだったんじゃないの?

って聴いたことに、哀しみに沈んでる女性には、死者を愚ろうしてるように

感じたようで、なにも言わずにそっとしておいてほしいもんだ、ってような

感想をしてたんだけど、これも聞いた方の態度がぶしつけで同情心が薄いよ

うな印象で、批判されても仕方ないにかもしれないしても、正直な同情がな

かったとは言えないし、ぶしつけは親しさの気持からだったかも、って私は

感じるわけで、やはりこういった場合など特に、他人への言葉遣いなども敬

意を忘れない方が間違いないのだろうと、自戒する私であった。


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