8/31のしゅちょう
            文は田島薫

(自分とつきあう、ってこと、について)


きのう中学生向けの詩についての本を読んでたら、詩が書けるようになる、

第一歩は、詩の本をたくさん読むことではなく、そんな本を一度も読んだこ

とがなくても、自分が思ったり感じたりしたことをまず書いてみることだ、

って言ってて、なるほどと思った。

これは表現一般について一番大事なことで、人は自分が何を思ってるのか感

じてるかを確認する習慣を抜きにして、他の人がやってることと同等のこと

をやれなくちゃいけないんだ、って慌てて見よう見まねをし始めちゃって、

それなりの成果が出ると安心し、自分というものについてよく知らないまま

そういった物まねの技術ばかりがうまくなるだけ、って例が多いのだ。

他人からばかにされそうだったり、どんなに稚拙に見えても、自分で感じた

ことを正直にまず表現してみないことには、自分が疑問に感じたり不快に感

じたり、解決したいと感じてる問題や、逆に心が踊るぐらい好感を感じる対

象がなんであるかが分からないのだ。

そうして、なんらかの自分の求める対象が分かった段階で、それについての

本を読んだり、自然を見直したり、他人の作品をながめたりしてるうちに、

自分の感覚や表現の方法なりが明確になってくる、ってわけなのだ。

表現は最初、詩を書いてみてるうちに、それより、絵や音楽や哲学やその他

に自分の嗜好が合ってることを発見する場合もあるんだろうけど。

自分の表現を見つけないうちに他人の表現のどれかが好きになって、それの

真似を始めるのは悪いことじゃないんだけど、それだけで終わってしまうの

はつまらないことで、いくらそれが他人から高評価を受けたとしても自分で

もそれだと借り物の表現だ、ってことはわかってるはずで空しいだろう。

逆に他人から高評価を受けられなくても、自分の表現が自分の正直なオリジ

ナルなのだ、って自覚があれば、表現を続けて行く力になるだろう。

もっとも、生涯全く絵が売れなかったゴッホのようなことになるとそれだけ

やってる者は生活が成り立たないわけで、生活のために自分の表現を他人に

合わせる、ってようなことがあったとしても、それを盛大にやって金持ちに

なるより、できる限りそれはやめることで貧乏の中でも自己表現に励む表現

者がやっぱり自分と正直につきあうという意味で豊かな人生だろう。


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