6/22のしゅちょう 文は田島薫
(芸術評論の落とし穴、について)
先日、友人の画家がNHKの美術番組について司会者たちの的外れの解説が不
要だ、って感想をSNSにコメントしてたのを見て、賛同、とコメントした。
古典的な名作について解説する番組なんで、その司会者やゲストたちには酷な
感想かもしれないんだけど、それでも、歴代のそれの中には違和感なく聞ける
タイプも多くいたんで、当人の意識の差もあるような気がするのだ。
どういう違いがあるんだ、って言えば、反感や不要を感じる方のコメントの傾
向は、その内容が、そんなことわざわざ言い替えて解説してくれなくても、一
目見ればだれにだってわかるようなことだろ、ってものや、おいおい、それは
あんたの勝手な感想だろ、そんなに偉そうに決めつける感じの物言いはやめた
方がいいんじゃないのか?、ってもので、逆に好意的に受け取ることができる
のは、当人のたしかに鋭い感受性を感じさせる新鮮な見方を、こんなことを感
じてしまったんでお耳を汚すかもしれませんがちょっとだけ言わせていただい
てよろしいでしょうか、って風のものか、あきらかに一般人が知らない知識に
基づいた情報に自分の感想をひとつだけ付け加えたようなシンプルな解説。
これの違いが起きるのは、例えば、政治や社会評論のように、歴史や現実の膨
大な知識や情報や分析能力がなくても、芸術は、感性だけあればだれでも感想
が言える、ってことで、色んな作品に触れちゃそれについての感想を何度もや
ってるうちに、話し方の技術だけが向上して、自分は芸術について評論できる
ような気がしてくる、といった錯覚による弊害なのだ。
それでも、新しいものとの出会いを求める好奇心で、まだ世に出てないものや、
出てても、一般人が敬遠したり知らなかったりする作品を先に見つけて、こん
なすばらしいものがあります、って自分の感動をわかってもらえるでしょうか、
ってような感じで紹介するならそれは有効な仕事だろう。
ところが、頼まれもしないのに、すでに世に出て人々にそれなりに受けてる作
品に口出しして、これはここんところがよくない、などとおせっかいする評論
を時々見かけるんだけど、そういった評論家は自分の立場がさっぱりわかって
ないのだ。芸術評論家は芸術家の仕事を見てああだこうだ言ってるだけで自分
で創ることはできないのだから(知らないから余計口が達者になる)、あらゆ
る芸術家に敬意を持って、自分が共感できないものに対して、ここがよくない、
って思ったら、自分がそれについての感受性と理解が追いついてないのだ、っ
て理解するのがいいのだ。