5/25のしゅちょう
            文は田島薫

(情報収拾と人生の時間、について)


コロナ感染防止で家から出ない人々も大勢いて、家でテレビ観たり、パソコン

やスマホでネット検索したり、ツイッターやフェイスブックなどを読んだり書

き込みしたり、ゲ−ムソフトでゲームしたり、いくらでも時間つぶしの方法が

あって退屈することはなさそうなんだけど、長く家にこもるような状況から早

く脱したい、ってたいていの人々が感じてるらしいのは、どうも、人は情報だ

けで勉強したり遊んだりしてても、実際の空間で実物の人と直にコミュニケー

ションできないと十分な満足はないようだ。

人は自分の人生を充実させるために自分の興味ある事柄を追求するんだけど、

人によってそれの軽重はいろいろで、毎日、気の合う人間と会わないといられ

ない者もいれば、何ヶ月か先にそういった予定がありさえすれば、その間ひと

りぼっちで研究や執筆などに没頭できる者もいて、いずれにしても、なんらか

の生の人間との関わり合いがそれに付随してることが必要のようだ。

だから、感染防止など不要の状況だったら、だれでも知らずにそういった情報

収拾や研究などと生のコミュニケーションをうまく配合して楽しく暮してる、

ってことなんだろう。

で、なにか自分の追求したいテーマについて研究に没頭する、ってことなどは、

世界へのなんらかの文化的貢献の可能性もあり、それで人生を終える時に、悔

いはなさそうなんだけど、例えば、他人が創作した小説やらゲームやら音楽や

らを、ただ次々と鑑賞して行くだけだとしたら、どうなんだろう、って考えた

時、それでも、自分が今まで経験したことのない人生や世界を疑似体験できる

喜びはあるんだから、膨大なそれらを享受した末の人生の終わりに、あ〜おも

しろかった、って言えればそれもありかな、とも思う。

ただ、私も子ども時代からいろいろなものに興味を持って没頭してはやがて飽

きて、ってくりかえして来たんだけど、それがずっと飽きずに持続できるもの

があったなら幸せなのかも、とも思う。

で、もし飽きずに持続できるものがあるとして、それが、あるジャンルの享受

や収拾だとした時、なんだか大勢が同じテーマでそれやってるのを見た時、私

は、それ、ほんとに心から楽しんでるのかな?って疑問に思うことがあるわけ

で、それは大きなお世話だろうけど。例えば、昔流行った切手収拾のように、

始めは純粋な興味で始めた収拾が、それ自体が目的に変わってたり。

多分、情報収拾の目的は、それによって学んで、自己変革をくり返して、生の

自然や人間の本質を深く味わい、感想を述べたり人との関係を大事にしたり、

自分で俳句などのなんらかの創作をするのもいいんじゃないかと思うのだ。


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