2/10のしゅちょう
            文は田島薫

(死者を悼む、ってこと、について 2)


ここ3年余で、兄弟同然のつきあいだったいとこやバンドごっこなどで濃いつき

合いをしてた友人も亡くなったんだけど、どちらも重い癌が宣告された後、当人

も周囲もいつ死んでもおかしくない状態なのだ、って覚悟はゆっくり共有した末

のことだったんで、精いっぱいの治療の末亡くなったという知らせには、なんと

か納得させられたんだけど、先日、50年ぐらい途切れることなく親しくつきあっ

てた友人が突然亡くなった、って知らせには、きついものがあった。

だって、10年ぐらい前に軽い脳いっ血で倒れた後は、奥さんは食事の栄養バラン

スに気をつけ、毎日仕事の行き帰りなどウォーキングに励んではツイッターに毎

日何枚も写真をアップしたり、会えばダジャレを連発しては自分で笑う元気そう

な、がっちりした体型の男で、ほんの3週間前に彼の事務所を閉める片づけの手

伝いでもう1人の友人と飲んだばかりだったし、また次の約束もしてたんだし、

ツイッタ−写真も、私は連日チェックして、いいねをしたりしてて、当日も歩行

中心不全で倒れる直前まで写真をアップしてたのだ。

だから、奥さんからのその連絡メールを受けた時は、現実のこととは信じられな

い気分だったんだけど、ショックから、少し時間を置き少し冷静になってみると、

われわれの年令は数十年前ならば普通の平均寿命だったのだし、今日だって、後

10年ほどで平均寿命なわけで、それも、たいてい半分ぐらいは病床での老後、み

たいだ、って考えれば、今死ぬことはそれほど特別なことでも夭折、ってことで

もないわけで、10代か20代の目からすれば、ふつうの老衰に感じるかもしれない

のだ、って考えたら全然他人事じゃなくて、明日の我が身だ、ってことに気づく

わけなのだから、それを気づかせてもらえた、って感謝さえしていいのかも。

いずれにしても、いい年になっても、自分だけはいつまでも生きられるんじゃな

いか、って感じてたり、親しい人たちもきょうと同じく明日もずっと同じように

いっしょに生きて行くんじゃないか、って感じてるのが、実は日々、人の体は崩

壊に向かって変化してるもんで、それを遅らせる努力しかできないんだ、って事

実に気づかせてくれるのが身近の人の死なのだ。

だから、それを気づかせてくれた亡くなった友人のことを想ったり、死はいつも

そばにあることと、生きてる間の時間の貴重さ感じたりで、亡くなった者と生き

てる自分とを別世界のことと考えるんじゃなくて、地続きなんだ、って感じるこ

とで、なくなった友人と死後もつきあう、のが「悼む」の進化形かも。


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