11/24のしゅちょう 文は田島薫
(凡庸と非凡の岐路、について)
凡庸と非凡、というと、凡才と天才、っていうのと同じにみえるかもしれ
ないんで、非凡、って他人から評価された時に、人は、少しいい気持ちに
なって、そうかもしれない、って満足する者も多いだろう。
ところが、これはたいていお世辞で、非常識でできれば普段つきあいたく
ない変人、って意味もあるのだから、あまり安心し過ぎてもよくないのだ。
それでも、たとえば芸術家なんかは、世間の人々とうまくつきあえない非
常識者であっても、表現さえしてれば当人は充実を感じてるわけだからさ
ほど問題はないだろう多分。
じゃ、もっと普通の社会人の場合はどうかといえば、芸術家のような表現
をしないとしても、なにか創造的な物作りや発想をする仕事をする者でそ
れの成果が出てる者は日常生活で非常識であっても、一定の敬意を受けら
れるはずだ。
じゃ、そういう物作りのようなこともせず、他の人々と同様の仕事をやっ
てるだけなのに、日常生活が非常識だとすると、あまり敬意はもらえない
ばかりか、他人に迷惑をかけるようなら軽蔑さえされちゃうだろうから、
その場合はとりあえず、謙虚に常識を守るのがいいだろう。
凡庸と非凡が常識と非常識となり普通と異常、ってなると微妙に意味が変
わってきて、当人は他人と違う自分の才能と思ってることが、馬鹿馬鹿し
いから常識ある人はやらないことをただ目立つことがうれしくて奇異を表
現してるだけかもしれない、ってこともあるし。
それでも、軽蔑されようが自分が感じる通りに行動したい、って強い感覚
があるなら、許される範囲の迷惑をかけつつ生活するのもあっていいのか
もしれない。
もし、自分の感覚が自分で価値のあるものなのだ、って感じてそういう行
動をよしとするなら、そのことについて、よりその価値を証明するような
形にすることを考えるなり追求するなりし続けてると、芸術家か発明家に
なれるかもしれないし、なれなくてもひとつの生き方かもしれない。