10/19のしゅちょう 文は田島薫
(禅修業、について)
先日、テレビで、来日後30年禅寺で修業したドイツ人僧侶の話の表現がわ
かりやすく納得させるものだったんで概略をご紹介。
彼が少年のころに母親が突然病死したこともあってか、いずれ人はみんな
死ぬことがわかってるのに、自分がなんのため勉強するのかなんのために、
生きるのかがわからなくて、宇宙物理学や哲学の本を読んで考えたのに、
答が出なかった時、教師のひとりに座禅を誘われ、最初、やりたくないと
断ったものの、2.3週間後の再度の誘いの時、やってみたことがないのに、
なぜやりたくない、とわかるのだ、と聞かれ答えられず、20分ほどの座禅
を試したところ、姿勢を正して呼吸を意識するだけの行為に、それに連動
して反応する今まで意識したことがなかった自分の身体の働きを実感した、
そうだった。
それから、間もなく来日してとある禅寺での修業を始めたらしいんで、そ
の最初の座禅体験で、それまで悩んでいた問題意識のひとつの答を一気に
感じたんだろう。
禅修業は朝から夜まで掃除と座禅と自給自足のための農作業と私語厳禁の
粗食の食事のくり返しなんだけど、一般社会での金を稼いで物を買って暮
らし、収入の高さや持ち物の高級さや職業の地位を他人と競うような価値
観とは別世界のそういったものを忘れて、生きてる自分の身体と、周囲の
自然や宇宙を感じるような生活だ、と。
都会などで色々な物や情報摂取に忙しく生活していると、首から上の頭ば
かり使って身体感覚をおきざりにしがちのところ、なにも考えずただ座っ
て自分の呼吸を整えることだけに集中しろ、って中で、そうしてると、小
鳥や虫の声や、木々のそよぐ音などが聞こえて来る、と。
寺には月始めの5日間、朝の4時から夜の9時まで15時間座禅を続ける決り
があり、初期のころ3日めに堂頭に死にたくなるほど苦しいと弱音を吐い
たところ、じゃ、死ぬのがよかろう、って言われたんで、そうしてみよう
か、と思ったんだけど、どうもそれはできないまま、座禅を続けてるうち
に、生きてる自分をより実感し、生かされてる有り難さがわかった、と。
ここまでが概略で、ここから私の感想なんだけど、座禅のような単調な行
為を30年もやらなくても、覚りのようなことはもっと短期間で身につくん
では、って思う私はまだ十分に禅の真価をわかってないのかも。