9/24のしゅちょう
            文は田島薫

(児童教育の理想、について)


わが国の多くの家庭の親たちは子どもが小学生ならいい中学校に、中学生ならいい高

校へ入るために、下校後も学習塾に通わせたりしてるように見えるのは、あらゆる教

科がなんだか私の頃よりも高度になってきてるせいもあるようなんだけど、どうも、

その高度、って意味は、憶えなくてはならない些末な知識の量が増えただけのようで、

なんで、そうなるか、って言えば、受験生が一斉に同じ方向を向いて競争してるもん

だから、それの合否をつけるためにそれのエスカレートが止まらない、って馬鹿げた

悪循環になってるようなのだ。

だいたい、学校へ通う一般の子どもたちのほとんどは、私が子どもだった頃よりさら

に浮かない顔をしてるどころか、より深刻な全員うつ状態ぐらいの感じに見えるし、

もちろん、はしゃいで楽しそうにしてるグループも見かけるけど、そんな中でも仲間

はずれや陰湿ないじめもありがちのようだし。

子どもが自分から勉強をしたい、って気にさせるような教育よりも、最初から問答無

用で、これだけのことを覚えなくちゃいけない、って始終命令されてるような教育で、

しかも、その量が年々増える感じで、同級生たちは全員競争相手、相手を蹴落として

いかに自分だけ先に行けるか、ってことだけを強いられてる状況が楽しいわけはない

し、他人への友情やら共感やら思いやり、といった感情は育ちにくいだろう。

こういった大勢に対して、子どもの主体性を育てることを大切にした教育法を推進し

啓蒙活動してる教育者の菊池省三さんとか映画監督の筒井勝彦さんのような人々もい

て、少しづつそれを取り入れようとする意識の高い私学も出て来てるようなんだけど、

まず、一般国民のわれわれの意識が既成のそういった凡庸教育制度を無批判に受け入

れ続けてることが一番問題だろう。

そういった右へならえの均一教育で育った子どもたちも、ただ、その中で同じことを

できるだけ早く多くできる、ってことだけを良いことと思い込むもんだから、そこか

らずれた、遅くて少ないことする者や違うことをやる者を異物として排除的に扱った

り馬鹿にして当然と思ってしまうのだ。

本来、学問は、新しい時代を創るために、現状の環境の問題点を発見したり改良する

批判的な視点を持ち、創造的な発想ができるようになることが一番大事なはずで、百

科事典に出てるような知識をいくら詰め込んでもそれだけでは役には立たないのだ。

子どもにはできるだけ多くの時間に自然の豊かさや人の優しさに触れさせ、興味の対

象にしても他人と違うことはすごくいいことなのだ、って教え、もしそれを馬鹿にす

る者がいたら、違ってることを誇りを持って主張し、それでもわからない相手はとり

あえずほっておくのもいい、って教えるのがいいのだ

世界的演出家の蜷川幸雄さんは幼い頃の娘に、都会の雑踏を歩いて行く群集がいたら、

だれも歩いてない逆方向へ歩いて行け、って言ったそうだ。


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