●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、日々の生活の中で何か悟ったようです。



家事をするが勝ち!


昔の話だが、私が育ったのは家内工業的な印刷屋であった。

自宅と工場が同じ屋根の下で、母も印刷の仕事を手伝い、今でいう共働きであった。

子供の私の目には、父は家事には決して手を出さず、なんだか母ばかりが忙しそう

で苦労しているように見えた。

父は仕事や金繰りのことで頭がいっぱいで、いつも機嫌が悪かった。

母は、働く職人に目配りして、日々の買い物に行き、台所で料理をし、子供たちと

おしゃべりしたりし、工場と部屋を行ったり来たり、くるくる良く働いた。

ようやく長女が二十歳になったとき、結婚準備という名目で勤めを辞めさせ家事手

伝いにした。

やがて姉は家業を継いで、やはり母と同じ道を歩んだのだった。

そんな家の様子を見続けた私はずっと、女にはいつだって家事がついて回り、男は

なぜか仕事ばっかりで、とても理不尽だと思っていた。

だが、やがて私も結婚をして、当然のように家事をした。

その頃は昔と違って、すべて電化され、家事に費やす時間は圧倒的に少なくなり、

自由時間は持てるし、その成果は自分で納得すればよく、誰の気兼ねもいらない。

そこで、家事というものは“つまらない”のであって“つらい”のではないのだ、

と気がついた。

仕事は、結果的に金銭をうみ、評価され、やりがいという対価があるのに対して、

家事は、いくら完璧にやっても誰からも評価されないし、目に見える対価は支払わ

れないので、やりがいがないのである。

時は移り、最近は夫婦共働きが一般的となり、家事分担は当たり前となっている。

だが、仕事を持って、男であれ女であれ、金をもらうだけが生きがいではないだろ

う。そこに自分がどれだけ必要とされているかとか、仕事にどれだけ楽しみが見出

されるかが加味される。

やがて年を取り、共に退職期を迎え仕事から離れるが、それでも生きている限り家

事は続くのだ。

我が家は今、病身の夫がいて家事はほとんど私がしている。

そして最近、家事をしていてつくづく得だと思うことがある。

歩いて買い物にいくのは運動だし、料理のレシピを考えるのは頭を使うことだし、

商品知識も広がるし、手先を使う。

時には、シチューをコトコト煮込んだり、陽の匂いのする洗濯物を取り込んだりす

るときの、ささやかな幸せ感で癒されることがある。

さらにいえば、私の家事が病の夫を支えているという満足感も。

最近、母を思い出すことが多くなった。

きっと母も同じ思いで仕事も家事もこなし、精一杯充実して生きたのだろう、と。


(“一葉もどき”はこれより8月いっぱい夏休みといたします)


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