8/19のしゅちょう
            文は田島薫

(自己責任、って言葉について)


先日フェイスブックで友人とやり取りしてる時、友人が、日本人は毎日14時間ぐらい

普通のように働いてる、ってことを世界的に見て異常なことだ、って話をしてて、そ

れはけっきょく自己責任なんだけど、って言ったのを、一般的なイメージで考えると

その通りだな、って感じつつ少し抵抗を感じてしまい、軽く反論めいたことを書き込

んだんだけど、友人は私の言うことも理解してることを知らせてくれた。

友人が言ったことは日常的にどこでも行われてるような、私自身だってやってる雑談

的表現なんで、そのまま合わせておくんでいい、っていうのが庶民の暗黙のルールの

ようなもんなのに、空気を読まないでいつも人にからむ傾向の人間(私)が急に言葉

尻をとらえて何か言った、ってことなんで、そのやり取り自体にどっちが正しいとか、

ってほどの意味はないんだけど、その言葉についての私の別の感想を。

で、けっきょく、私はここでなにを言いたいのか、って言うと、人がどんな環境でも

自己責任で物事を頑張る、って言った話には美学的に人を共感させる力がありそうな

んだけど、自己責任、って言葉で決めつけられるべきでない人々も世の中、大勢いる

ことを忘れないようにしよう、ってことなのだ。

人々はたいていの事はみんな同等にわかってるんだけど、忙しい日常生活の中で使わ

れる言葉の意味を経験的や条件反射的にイメージしてしまわなければ、生活の進行が

言葉ごとにストップしてしまうかもしれないわけで、一々、言葉の意味を検証したり

はしないのが普通のことなんで、知らずに一般メディアの表現に影響を受けてしまっ

てることが多いんだけど、みんなで共有してる言葉とその一般的意味ならばコミュニ

ケーションはスムーズ行くわけだからそれに不自由を感じることがないし、みんなが

そういった意味では私も含め日常にはさほど厳密に言葉を使ってはいないのだ。

で、世の中の底辺の人々の事情を知らずに来た裕福な家の子孫とか、貧困から脅威的

ながんばりで成功した実業家とかから見たら、貧しい人々は頑張りの足りない人々だ、

って見えてしまい、そう表現したりすると、たしかにその通りかもしれない、って自

分を責める人々もいるようなんだけど不遇な人々のその不遇の度合いには歯止めがな

くて、たとえば子どもや病床の親がいて辛い気持のまま安いパートの掛け持ちなどで

必死に生きてたら当人も病気になってしまったとか、そんな時、余裕のある者が気軽

に言った自己責任、って言葉をそんな立場の人が聞いたらどう感じるだろう。国民が

そんな不遇の時にも生活はちゃんとできるセーフティーネットや福祉環境が充実して

るのが先進国家、ってものなのに、それがいつも自己責任、って言葉が先行して国の

補助金を受けたりすることを恥と感じさせるような風潮を役人たちも奨励してるよう

に見える状況があったらわれわれ国民がそれを助長させてはいけないのだ。


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