6/3のしゅちょう
            文は田島薫

(死ね、って言葉、について)


バス停で待ってた小学生たちに刃物で襲い大勢の子どもに怪我をさせ子どもと大人

のふたりを死なせた後自殺した中年男について、どうも男は当初から自殺目的だっ

たようだ、ってのを聞き、私も含め大多数の人々が、死ぬならひとりで死ね、って

思ってそう言ったようなんだけど、それについてその言葉には問題があるんじゃな

いか、ってだれかが言い出し、なるほど、と私も思ったんでそれについて。

人を殺した人間に同情する、ってことはなかなかできないことだし、それをする必

要も感じにくいことなんだけど、戦時中などのように状況が煮詰まればだれにでも

自分自身や他人を殺すようなことが起きる可能性はあるわけで、そういったことは

全くありえない、って今感じられるなら多分健全な人生を送ってるんだろう。

どんな環境や状況でも人が人を殺す、ってことは絶対悪なわけだから、そういった

事態になってもそれを避ける努力はしたいもんなんだけど、まずそういった事態に

なってからでは弱い人間の意志ではどうにもならないこともあるわけだから、戦争

などに向かう気配を感じたら状況を変える努力をすべきだろう。

で、戦争まで行かない個人的な「生き死に」について、例えば自殺を計る者は、た

いていひとりぼっちの疎外感と生きてることの喜びを感じることができない絶望感

にとらわれてしまってることが多そうで、それは今のわが国の各世代に共通の生活

環境がそれを助長してるんだろう。

私が子どもの頃はわが家の近所じゅうが貧しかったけどあけっぴろげのつき合いを

してて、親たちはあちこちでお茶飲んだり立ち話してるし、子どもたちは暗くなる

まで大勢が走り回って遊んでたのが、今や、たいていどこの家も静まり返ってて、

大人は遅くまで会社やパートやらの仕事行ってるし、子どもは塾へ行ったり、家ん

中で1人でゲームしてるような環境で、唯一携帯やスマホでどうでもいいようなや

りとりしちゃ友だち関係を確認したりだれかを気軽に仲間はずれにしたりしてる。

で、子どもたちも自分がそれをされることはひどく恐れるくせにだれかを仲間はず

れにするのは気軽にやれる、ってことについて多くの子どもが疑問を持ちにくいの

は、他人は競争で自分が勝ち上がる時蹴落とす存在だ、ってことを奨励してる受験

本意の教育制度に問題があるからなのだ。

で、そういった感覚で、よく子どもも大人も気軽に「死ね」って言葉を使うんだけ

ど、大人でも子どもでも疎外されてる層がその言葉をどれだけ重く感じてるかは、

呑気な大部分の連中にはわからないのだ。

当初の通り魔的殺人者に対して、ひとりの奥さんは、ひとりで死ねばいいのに、っ

て言う代わりに、死ぬ気持があるならなんでもその気でやれば上手く行くはずなの

に、って何気なく言った言葉に人心地のつくような希望を感じた。


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