12/2のしゅちょう 文は田島薫
(豊かさ、ってことについて)
乏しい、ってことより、豊か、ってことの方を人は好むのが多分普通で、生き
るのに必要な物が不足してるよりたっぷりある方がいい、って感じる人が大多
数、ってあたりまえなんだけど、これがなんでもただ物が溢れるほどあればい
いのか、って言えばそうでもない、ってことになる。
豊かさ、って概念には物理的な物の量の他に、人が感じる目に見えない価値、
ってもんがあるからだ。
だって、大金持ちの家に生まれて、なんでも欲しいものが好きな時に手に入る、
って生活をしてる者がいたとしたら、何かを頑張ってやっと手に入れた、って
時の喜びなどは味わえないはずだし、次々と好きなものを買って食ったり、豪
邸やら高級車を買って使っても直に飽きてしまうだろう、って言っても、私は
経験がないので本当はわからないわけで、実際は次々とより珍しいものを手に
入れては味わう、ってことには飽きる、ってことがないのかもしれない。
だから、それができてそれでいい、って者はそういった生活で一生過ごせばい
いと思うけど、現実の大金持ちはたいてい何かの特別な才能や努力の成果で成
功したものが多くて、その持ち物の豊かさを誇示するよりその成し遂げたり、
現在進行形の仕事に喜びを感じてるように見える。持ち物をただ誇示してるの
は自分ではなにもできないしするつもりもないただの親の脛かじりか、たいて
いは金もうけのためだけに不本意な仕事をこなしてる貧乏人が多い。
と、言うことは、やっぱり、当人が精神的な向上心を持っていかに充実した生
活をしてるか、ってことが一番大事なのだ、ってことになるわけで、けっきょ
く、人にとっての本当の豊かさ、ってものは金持ちか貧乏人か、ってこととは
無関係なのだ(私の負け惜しみもあるかも)。
だから、芸術家、ってものはたいてい貧乏だし、才能もあって成果もきちんと
上げた少数のそれで成功した金持ちはいるんだけど、中にはなんだか不本意な
成果を強いられ不幸な気分で生活してる者もけっこういそうなのだ。
豊かさを、別のたとえで言えば、なにもない砂漠のまん中で、だれかのことを
想った、とか、見知らぬ人が水をわけてくれた、ってようなことも。