11/18のしゅちょう
            文は田島薫

(自由の発見、について)


世の中、すごく人生楽しんでるようにみえる人と、辛くてしょうがない、って風

に見える人と大きく分けてふた通りになるとして、その境目にいる人ならば、大

抵はできるだけ楽しんでる方に入りたい、ってなると思うんだけど、一概に楽し

い、って言っても、なにかを目指して苦しい努力をしてる人は端からは、辛そう

な人生に見えたとしても、それは辛さを楽しんでいる、ってこともあるんで、楽

しい部類でいいことにして、問題は辛いだけでおもしろいこともなく、生きてる

ことを空しく感じる、ってような人の場合だ。

きのうテレビでピカソの特集をやってて、それを解説するお笑い芸人の太田光さ

んが、自閉的になってた高校生時代にピカソの「泣く女」って絵を見た時に感動

して人生の楽しい未来を感じさせてもらった、ってようなことを言ってたのが、

同じような高校生時代を過ごした私にもその気分がよくわかる気がした。

多分、今の受験勉強偏重の教育を受けてる小学校から高校まで、ひょっとしたら、

大学も大学院も、画一化された価値観に沿って勉強させられ、その成績で人とし

ての優劣さえ決められてしまってるように見える環境で、その生活に喜びを見出

せないままただひたすらそれが人生、ってもんなのだ、って割り切って頑張って

たりする者が多くいると同様にそれができずに落ちこぼれて敗北感や挫折感のま

ま生活してる者も多くいるはずなのだ。

その2パターンのどちらだとしてもも、他から不本意に「やらされてる」感を持っ

てたとしたらその人生を楽しむことは難しいかもしれない。

じゃ、人生を楽しくさせるにはどうしたらいいのか、ってことになれば、その逆

をやればいいんで、自分から選んで自分がやりたいことをする、ってことになる

んだけど、そんなこと言ったって自分のやりたいことだけやって生活費をかせぐ

のは大変なことだから、だれもがそれを思ってても生活のためには不本意な仕事

でもやらざるおえないのだ、って多くの人は言うだろう。

なんでも自分の思った通りに世の中が合わせてくれて好きなことはなんでもでき

る、ってわけにはいかないのが世の中だ、ってことはその通りなんだけど、だか

らと言って自分の本当にやりたいことを世の中の価値観で曲げられたまま妥協す

る必要はないんであって、とりあえず、世の中の価値観は無視して、他人に迷惑

をかけない限りなんでも自由にやっていいんだ、って考えて将来のありたい自分

の心と相談するところから人生の方向を決めるのがいいのだし、自分のやりたい

目的と違ってる他人の常識的成功と自分の生活は無関係と考えてどんな状況でも

自分のやりたい目的努力のようなものが、例え「オタク文化」のようなことであ

ったとしても、自信を持ってやってっていいのだし、それが全く生活の糧を得ら

れる可能性がないというんでなければ収入がとりあえず最低限だとしても、やれ

るならばそれが楽しい人生のための自由というものなんだろう多分。


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