7/9のしゅちょう 文は田島薫
(天才の育て方、について)
昨日、新聞読んでたら、お笑いの太田光さんが、新人芸人のネタにだれも一切手を入
れてはいけない、って言ってたのが妙に共感したんで概略ご紹介と感想を。
新人だった自分らにも必死で作り上げたネタにオーディションで審査しながらダメ出
しをしてくるプロデューサーやディレクターはいて、ワラをつかむ思いで一部を取り
入れてみようとしてやってもほとんどうまくいかなかった、って、やっぱりなぜこの
ネタか、って分かってるのは自分たちだし、芸人としてお笑いの舞台に立ったことの
ない人がネタにアドバイスするのはどう考えても違うと思った、と。
それで、芸人以外でも仕事をしてる人は同じだし、中学や高校生だって指導される一
方なのはお腹いっぱいだろう、って。で、いつも溢れる情報や他人の考えにふりまわ
されてるんじゃなくて自分の思いをつきつめてみろ、って。
私も全く同感で、私が本業にしてたグラフィックデザインでもプレゼン時にダメ出し
してくる営業マンはいて、営業の立場からの意見や希望としては当然あっていいんだ
けど、自分が知ってる表現のタイプと違ってることを理由に、前例がない、とか、気
軽に、デザインってそういうもんではない、って言われたこともあった。
人は何か立場上の優位についてる、って感じた場合、自分はなんでも相手に指図でき
る能力もある、って錯覚してしまうことがあるようなのだ。
で、たいてい、そういう場合の意見というものは、良く言えば現在一般に流行してる
方法表現であったり、昔からどこにでも見られる常識的表現であったりするわけで、
それは、それを言ってる当人自身の意見というより、すでに世間で通用してる表現な
ら安心、って言ってるだけであって、少しでも固定概念の域を出る表現への良し悪し
の判断はつかないし、許可を与えて問題が起きた時に責任を取るのはいやだ、ってぐ
らいのことなのだ。
だから、こういった環境の中で自分の表現をきちんとつらぬいて行くのは大変なんだ
けど、自分自身で掘り下げる以外だれにでもあるはずの天才は育たないのだ。
一般常識的な技術論で、こう表現したい時はこうするとうまく行くよ、ってぐらいの
ことは人から教わるのもいいかもしれないんだけど、自分の感じたことを、固定概念
を使った表現でまとめそうになった時は、もうそこに天才はいないのだ。