2/26のしゅちょう 文は田島薫
(自分で考え表現する大切さ、について)
先日、新聞のコラム(週1で5回か?)連載中なんだけど)でJリーグ顧問の川淵三郎さん
の話1回目を読んで共感したもんで、概略ご紹介。
少年の頃内気で自分の気持を正直に出せず、ある時友だちの母親に気兼ねして誘われたキ
ャンプだったかなんかを断ったところ、その寂し気な本心を追求され、もっと自分の気持
に正直な方がいいのだ、ってことを悟り、後に就職した電工会社の宴会で、総務部長から
きょうは無礼講だからだれでも好きなことを言え、ってのに応え、現場の危険管理は前も
って対処したらいいと思う、ってような提言をしたら、この場でそんなこと言うのは場違
いだ、って総務部長が激怒、それに、何でも言っていい、っていったじゃないですか、っ
て食い下がったら、人事部長がまあまあ、っておさめてくれ、結果社内では、彼は意見を
言う人間だ、ってアピールはでき、それからはなんとなく一目おかれた、と。
だから、だれでも自分の考えは批判を恐れず発言するのがいいのだ、と、もちろんなんで
も思いついたことをべらべら言ってもいいってわけじゃなく、自分のレベルでよく考えた
結果ならそれが仮に欠陥だらけのものだったとしても、それによって自分の失敗点もわか
り努力の方向も見えてくるからだ、と。
概略はそこまでなんだけど、この意見は、今のわが国で一番不足してる部分を簡潔に言い
当ててる気がするわけで、老若男女の集まる場では、常に、和が大事とか、空気を読むの
がいいとか、ってことをだれもが当然のこととして、たまにそれを破る者は変人の烙印を
押して済ましてたりするんだけど、実は言いたい思いを抑え込んでウツになったり、なに
かのきっかけで、異常な怒りの爆発を引き起こす事件が起きがち、ってことも。
ま、これはわが国だけの問題とも言いきれないところもあるんだけど、米国などでは、学
校の授業の一環で違った立場での弁説の応酬、ってようなことをやってたりもあり、けっ
こう自由な発言をする気風がありそうだけど、その形はどうも相手を敵にみたてた攻撃型
になりがちなところが、それに対応しにくい者には鬱屈した気分を残すかもしれない。
わが国にも、たとえば、落語に出て来る下町の人々の歯に衣きせぬ言葉の応酬、って伝統
もあるわけで、そういう環境で育った子供は違った意見に対しても骨太の対応ができる能
力が多分育つはずだ。
だから、そういった知恵なんかからも学んで、立場の違う者から自分とは異質な言動が出
たりすることの当り前さを理解し、それにあわてない訓練をするとともに、自分が考えた
ことを臆せず表現し、それへの反対発言にも敬意を払いそれと自分の考えとを謙虚に検証
する習慣が常識、って環境にしていくことが、人々相互に心地のよい環境や世界を創って
行くための基盤なのだ。日米の主脳たちもそこからやり直した方がいいようだ。