2/13のしゅちょう
            文は田島薫

人と繋がること、について


人はたいていだれでも、自分と共通する趣味があったり政治などについての考え方が似て

る者のそばにいたりつきあったりすることの方を、それと逆の傾向の者とのそれよりも快

いと感じるはずで、それぞれの趣向に沿って色々なグループに世界は別れて行く面がある

んだけど、現実世界が運営されるためには、違った趣向や考えのグループや個人ともかか

わり合って行く必要もあるわけなのに、それはできるだけ避けたい、ってことでほってお

くとそれぞれの仲間内だけで集まっちゃ、共通の考えを賛同しあい、違う考えのグループ

の批判をそこで披露しあう、ってだけの終始をそれぞれのグループがやってる。

考えの違うものと同席しちゃうと、批判の応酬やら喧嘩になってしまうから、なるべく離

れ、関係は断っておく方がいい、って考え方もあるんだけど、世の中の矛盾や構造を変革

した方がいい場合、そうやって考えの違うもの同士が対立したまま関係をもたなければ、

なかなかそれは実現しやしない、ってことにもなる。

だからと言って、それぞれのグループが集会を持ってはそれぞれの考えの正当性を仲間の

参加者と確認しあい、それをもって反対グループの説得にあたる、ってそれぞれが考えた

としても、それは、たいてい、それぞれを支持するメディアで一方的に発信しあうだけで、

それを読むのは発信側の仲間のだけ、ってパターンが多そうで。

それぞれがお互いを理解することに精一杯努力してるなら、それぞれがそれぞれのメッセ

ージを深く理解しあい問題点の摺り合わせをしたりで発展的解決も早いはずなんだけど、

ごくたま〜に同席して議論にでもなればそれぞれが相手の意見に耳を貸さない。

けっきょく、人は、同類が集まると安心して、敵か味方か、って単純な気持に頭脳を支配

され、そこで思考停止してしまう傾向があるようなのだ。

本来、コミュニケーションで一番重要なのは、変えるべき考えを変えることにあるはずで、

そのためには、自分と違う考えの者との対話が大切、ってことになるんだけど、それはた

しかに難しいことで、人はだれでも長年の自分の考えを変えることを快くは感じないもん

で、そっとしておいて欲しい、って思いがちであって、それは、私だって同じで、考えを

変えさせる側が私で変えるべき側は相手だ、って決まっているわけではないのだし。

たとえば、どっかで政治集会やるのもいいけど、考える個人が反対する政党の議員に政策

の疑問点や懸念を問いあわせする、ってようなことを続けたとして、その議員の考えに洗

脳されちゃうか、こっちの真意が伝わってなんらかの同意を得るか、って繋がり方がもし、

あっちこっちでできたら、わが国や世界はもう少し良くなるはずなんだけど。


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