11/19のしゅちょう
            文は田島薫

(情報の海と沈思黙考、について


真面目な受験生や学生は他人よりも多くの知識を記憶しようと毎日勉強し、勤勉な学

者は毎日膨大な文献を読み込み何かの論文を仕上げ、熱心な蒐集家は珍しい品を他人

より多く集めようと調べたり出かけ、勤勉な事業家は毎日精一杯の心身を使って働き、

少しでも世の中のためになる品物を作ったりサービスを進歩させようと努力するし、

勤勉な労働者は、毎日心身を全力で使って働く。

そうして、だれもがそういった生活に少しづつでも進歩の実感を持てれば、充実感も

得られるし幸せに過ごすことができるだろうし、死ぬ時に、自分は誠意一杯人生をや

りきってなんの悔いもない、って思えた人は幸せだろうけど、たいてい1人の人間が

生涯にできることはそれほど大したもんにならないことの方が多そうだし、そうやっ

て生きてても人生はけっこう思ったよりも早く終わりに近づく、って年を取るほど実

感しそうで。

浦島太郎の物語のように、仕事でも趣味でも、なにかに熱中してる時には時間の経つ

のは早いもんで、あきらかに世間に誇れるようななんらかの成果があった時なら違う

かもしれないんだけど、終わってしまえば空しさばかり、ってことも多そうで。

特に膨大な情報処理に係わる作業に個人的成果を求めた時には、やはり膨大な時間に

生活を捧げる、ってことになりがちで、そういったことは順次コンピュータが代行し

てくれるようになってることもあり、1人の人間がやることで本当に価値があること

はなんだろうか、って自分の立場で考えるのもいいのかも。

坊さんが毎日長い時間座禅をする、ってことと、現代人の多くが、常に、テレビやら

スマフォや、書物もだけど、情報を得ることを常態化してることと、対極のような感

じに見えて、なんだかそういった座禅のようなものに気持がひかれる人がけっこう増

えてるらしいことにはなにか大事な意味がありそうだ。

もっとも、情報をたっぷり取ってる人がみんなそれだけやってて、自分の頭だけ使っ

て1人でものを考えたりはしない、ってことはないだろうけど、情報は外からのもの

でそれだけ並べて自分で感じたり考えたりせずに、だれかの考えや結論を読んでその

まま納得してしまうこともありうるわけだから、自分はどこにいるのか、ってことは

常に確認した方がいいだろう。とは言っても、全く常識知らずに自分勝手な感想や思

考をただ主張してもだれも聞いてはくれないはずだけど、批判や失敗も含めて、それ

を受け止めつつ考え続ける、ってとこから充実した人生が(たとえもう自分がさほど

先のない老人だったとしても)始まるんじゃないのかな。


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