10/22のしゅちょう
            文は田島薫

(卑怯、について


トルコにあるサウジアラビア領事館で、サウジアラビアの記者がサウジアラビアから送

り込まれた暗殺団によって殺され切り刻まれてどっかへ運び出された。

サウジの皇太子などを批判してたことへの制裁、ってことのようなんだけど、中世でも

ない現代でそれが白昼バレバレに実行された、ってことに私も驚いた。

もっとも、危険性を感じてた当の記者が、婚約者に自分のスマフォを渡して、自分が館

に入った後出て来なかったらトルコの大統領に連絡しろ、ってような指示をしてたから

それが判明したんであって、もしそれがなかったらだれにも知られずの突然の行方不明、

ってことで済み、暗殺団側にとってはそれで一件落着、ってことだったんだろうけど。

しかし、だれかの命を奪う、ってことが必要だ、って感じた者がいつでも好きなように

それを実行できる、って世の中だったとしたら、人々はお互いを信用することができに

くくなり、それぞれが個々に武装して、日常的に殺しあいも起きる悪夢のような不安定

で恐ろしい世界だろう。

内外の戦国時代やかつての米国の開拓時代なんかはそれに近い世界だったかもしれない

んだけど、それでも、戦争の場合は宣戦布告もしたし、一対一の戦いの時は双方同じ武

器を持ち、名乗りを上げてから戦うように相手への敬意も示すのが、名誉を重んじる武

士や騎士やガンマンだったはずで、闇討ちなどは軽蔑されたのだ。

それでも、非力な層が強大な武力を持ち圧政をする独裁者に対してそれをしたなら、そ

れは大目に見られる、ってぐらいのことだったはずなのだ。

ところが、世界の民主化のために自由な発言をした結果の批判に対し怒り、丸腰の一般

の人間である彼を集団で寄ってたかって命を奪う、なんて卑怯なんだろう。

卑怯、って言うのは、自分の身をまず安全な場所に置き、非力の者に危害を加える、っ

ていうのがそれで、わが国でも人の痛みを学ばなかった子供が平気でそれをやったりす

る例も多いんだけど、早い話が、前述のような強大な圧政に抵抗する武力攻撃に対して、

何倍返しものような武力反撃をし、結果起きる一般市民の殺りくも気にしないイスラエ

ルや米軍の空爆などのやり方も、卑怯、って言わざるおえないだろう。

もし、他国のなんかの集団に対して批判があるなら、まずそれを外交交渉で訴えるべき

だし、それで解決しないので攻撃を加えたい、って言うなら、そのリーダーが相手のリ

ーダーを呼び出し、銃なりナイフなりのこぎりなり同じ武器で決闘して決着をつける、

ってルールにしたなら、武器による戦いは双方あまりやる気が起きないはずなのだ。


戻る