思いつくまま、気の向くまま
  文と写真は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせい、カメラ技術の進歩に、なにか思いもあるようです。





機械は楽だよ




春の一日、フジフイルム・フォトコレクション展に足を運んだ。

テーマは、「日本の写真史を飾った写真家の「私の1枚」」。

展示されているのは、江戸末期から2001年までの写真家の「私の1枚」だから、

それぞれの作家が選んだ自信作であり、明治以前のものは代表作である。


展示作品の半分は、写真の世界に身を置いていた時の先輩同輩後輩の作品だ。およそ

50年前、その時代の写真は、センスはもとより技術が必要であった。技術とは個人

がもつ技量と科学に対する知識であって、レンズは物理、フィルムと印画紙は化学で

なりたっている。たとえば、なめらかな質感あふれる作品やトーンの荒れた作品を作

る場合にはフィルムの特性がわかってなければならない。ただ、でたらめにやればで

きるというものではない。デジカメのように技術者が作ったプログラムを追っていけ

ばよいというのとはだいぶ異なる。


順を追って展示された写真に向き合うと、それをつくりあげる苦労と努力がわがこと

のように思われるのと同時に、そのころの生活がよみがえってきた。しばし郷愁の時

をすごしたあと建物の外に出た。そこはこのビルの広い庭園になっている。桜にはす

こし早い園内を散歩していると、ひとかたまりの噴水に出会った。間欠泉のように間

をおいて吹き出す水の変化を見ているとある写真のイメージがわいてきた。写真展に

刺激されたのかもしれない。

さてその結果はというと見事に達成されていた。むかし、それこそ50年前はこうい

う写真を写すには計算と根気が必要だった。ところが今はどうだろう。デジカメに高

速連写の設定をすればご覧のとおりよそ見をしていても写る。機械は楽だ。

現代は撮影技術が不要になったため、だれにでもあるていどの写真は写る。スマホの

普及により、事件事故の写真がはんらんしているが、そこにあるのは現場の複写であ

って撮影者の意図はない。カメラの発達で撮影が楽になった分考えると言う事がおろ

そかになり、内容の濃い写真が減ってきたのではないだろうか。


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