10/30のしゅちょう
            文は田島薫

建設的なコミュニケーションの方法について


先週衆院選後の気落ちした文をここで書いたら友人のひとりから意外にも、いつものより

いい感じだ、って好評を得て、その理由について一方的にこちら側の主張を言ってるんで

なくあっち側の立場についての心配りも見えてるから、ってことのようだった。

言われてみれば、主張のようなもんは、そう考えてない相手を説得したい、ってことが主

になるんだろうから、頭ごなしに全否定のような表現されたり、ばかやろうだ、って言わ

れた方はそれを理解しようとする前に反発心しか起きないだろうし、その相手から見たら

言ってる私の方をばかやろうだ、って思い、その通り言うかもしれないんだから、主張す

る方がそういった態度では、その目的達成は駄目そう、ってことになるだろう。

そうやって言い合ってるだけでちっとも建設的な方向への考えにまとまって行かない、っ

て状況などは、よくテレビ討論会などでも見受けられる光景で、特にそういった相手をば

かにするような表現をしがちな者の意見はたいていが反発されたり当人が軽薄なやつだ、

って見られたりするだけで説得力を持ちにくい傾向がある気がするのに、一方、相手の発

言をハナから遮ることはせずによく聞き、その主題をしっかり聞き取って、きちんと対応

してる者は、たとえ少し乱暴そうな表現をすることがあったとしても、多分それは相手へ

の敬意も表わしてることになるのだ。

たとえば、討論をするんであれば、その相手を、ものの理解のないばかやろうを愚弄する

ために、って思ってやってるんであれば不毛なわけで、話をできるレベルまで自分で勉強

する気を起こさせるためのショックを与えてるのだ、って言うならひとつの理屈なのかも

しれないけど、多分それより、そのレベルに合わせたアプローチをする方が即効的だろう

(これはかのカール・マルクスも言ってたはずだし)。

それに、自分の方が相手よりもその問題についての認識が上だ、って感じてるなら、それ

を具体的な形で証明しなければ相手にはわからないわけで、かりに、それでそれが成功し

た気になったとしても、見方や条件を変えたら、それは違う、って相手の方が感じること

もあるわけで、その相手の見方や立場での認識もわかった上で、それを言い総括した時、

より相互の認識を共有できるわけなのだし、それを確認する過程で、自分よりも相手の方

がより認識に理がある、ってわかる可能性もあると考え、自己慢心をせず、いつもたとえ、

相手が若くて認識力がないように思えても敬意を持って対応するのがいいのだ多分。




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