民が主となるためには
民主主義とはめんどうなものである。
日本のように代議制民主主義あるいは議会制民主主義の国は、国民が直接国政にたずさ
わるわけにはいかない。国民すなわち有権者は代議士(代議員)を選んで国政にあたら
せる。ところがこの代議士と言うものが有権者との約束を守ってくれるとはかぎらない。
ほとんどの代議士は政党に属する。いざ採決となると有権者との約束は反故にして政党
にしたがう。今回の新安保法案についての衆参両院の行動をみればわかる。
代議制民主主義について、J・Jルソーは大略つぎのように言っている。
「人民は自由だと思っているがそれは大間違いだ。彼らが自由なのは選挙をする間だけ
のことで、議員が選ばれるやいなや彼らの奴隷となる。その自由な期間を人民が自由を
どう使っているかを見れば、自由を失うのは当然である」
説明のひつようがない明快なことばである。
衆院では過半数をこえる自民党議員。参院では自民党と権力の座におぼれて自民党のポ
チと化した公明党とで過半数をおさえた。こうなってしまえば国民がなにを言っても安
倍君の勝ちである。日本国民の選んだ民主制においてなんの瑕疵もない。
ルソーの言う「その自由な期間(選挙期間)を人民が自由(立候補者の吟味)をどう使
っているかを見れば、自由を失うのは当然である」。その通りになってしまった。
「民が主」となりたいのであれば、地元にやさしい候補者よりも国政を語り有権者をう
らぎらない人間を選ばなければならない。 |