●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、絵画の見方が変わる話を聞きました。



絵画の価値


だいぶ前の話だが、田舎で百姓をしているおじさんが家を新築した際、応接間にミレーの

「晩鐘」の絵を飾った。かなり精巧にできた複製画である。

私が、これは名画中の名画ですね、というと、

「そう、いい絵だろう。百姓が1日の作業を終えて静かに祈りを捧げている。かたわらの

籠にはわずかばかりのじゃがいもしかないけれど、収穫の恵みに感謝し、1日の無事を感

謝して、十分満ち足りているんだね。この絵を見ているとその気持ちが百姓の自分にはよ

くわかるんだよ」

とおじさんは目を細める。

ミレーの絵はほとんどの人が小学生の頃から知っているのではないか。美術教科書に代表

作として作品が掲載され、農村で働く貧しい人々の忍耐や苦悩、安らぎや幸せを描いた画

家だと教えられた。

多くの人々に理解されやすく、また共感と感動を与えた作品として高い評価を受け続けて

いる。見る人に感動を与えるという点でミレーの絵は芸術的価値の高い作品といえよう。

ところが先日、テレビでミレーの絵の分析のようなことをして、別の解釈を示していた。

というのは、この『晩鐘』に赤外線をあててみると、夫婦の足元には四角い棺桶が埋まっ

ているというのである。つまり、この絵は夫婦が収穫の祈りをしているのではなく、夫婦

の亡くなった子供を悼んで祈っている絵だというのである。

そんなことがあるだろうか。邪推以外の何物でもないような気がする。

そして私の頭に真っ先に浮かんだのは、こんな解釈を聞いたらあのおじさんはどう思うだ

ろうか、ということだった。せっかく「晩鐘」から得た感動は変わってしまわないだろう

か。

大地から恵みをもらう謙虚さとか感謝とか希望とかの純粋な気持ちに水をさされてしまう

のではないだろうか。

絵の価値を信じていてもチラリでも埋葬した子供を悼んでいるという解釈が頭をかすめれ

ば、途端にその普遍的な芸術性は価値を失うのではないだろうか。

とかく芸術的感動は、受けた扱いや宣伝などに影響されやすい。絵画に限ったことではな

いが、とかく芸術的価値は変化をするもので、そのときの社会風潮によって生み出されて

いく。

絵画の表現方法は刻々と変化し、その時代にもてはやされ流行となる。ミレーの作品も多

くの人に感動を与えていたのが、いままでと違った価値が与えられて見方が変わっていく

のだろうか。同じ絵なのに…である。


戻る