●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんの都電三昧だった日々。



都電あれこれ


今の若者は昔、東京の街に黄色い都電が縦横無尽に走っていたことを知っているだろうか。

私の脳裏には、まさに昭和の、そして青春の一風景としてしっかり刻み付けられている。

やわらかな丸みを帯びた黄色の車体、窓の下に赤い横線が走り、斜めに伸びたパンタグラ

フが角のように出ている。目立った姿で目抜き通りを王者のように走っていた。

私は短大時代に都電をよく利用した。

当時早稲田付近に住んでいて短大はなんと東京のはずれの越中島だった。

家の近くに都電の停留所があり、日本橋行やら茅場町行きが出ていて、日本橋辺りで門前

仲町や洲崎行に一回乗り換えれば簡単に学校に行きつくのだった。

なにしろ時間はたっぷりあるがお金はない学生の身としては、乗り換えない限り料金が一

律の都電は魅力的だった。

新宿区、千代田区、中央区、江東区を乗り越えていくのだから、気の遠くなるような距離

と時間がかかっていたはずだが、そのぶん、乗っているだけで街の在りようや人の傾向や

動き、景気情報まで、そのときの東京模様を肌で感じるような体験だった。

車窓から眺める街は早稲田付近のごちゃごちゃした住宅街から、小さい会社のひしめく飯

田橋付近、皇居のお膝元という雰囲気の九段下、活気に満ちた学生街の神保町、高級感あ

ふれる繁華街の日本橋、一転して下町の雰囲気いっぱいの門前仲町と、通過する地域の個

性は刻々と変わり、毎日東京見物しているようなものだった。

また面影橋、江戸川橋、飯田橋、水道橋、日本橋、江戸橋、永代橋と橋と名がつく地名の

多さにも気がついた。江戸の町はそれだけ運河が多かったことを物語る。

学校の帰りに、日本橋、神田、御茶ノ水、飯田橋など気の向いた場所を見つけては途中下

車。ずっと地元の小・中・高の学校だったので私の世界は一気に広がり、今思えば、あの

都電通学は私の心の糧となっていた。

スピードと効率だけがすべてではない、寄り道の楽しさ、観察の大切さを教えてくれた。 

その都電も昭和47年、本来の路線はすべて消え、今は荒川線ぐらいしか残っていない。


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