6/22のしゅちょう
            文は田島薫

(認識の果てしない旅について)


103才の女流書家が、いつ死んでもかまわないとは思わない、長生きをしたい、自分は日

々発見や進歩がある、ってような趣旨のことを言ってるのを著書の広告(?)で見た。

老人になって、もう自分はやりたいことは全部やったし、もうやり残したことはないから

いつ死んだとしてもかまわない、って言う人もいるけど、多分そういう人でも体が健康だ

ったなら、長生きするなんて是非とも回避したい、って言う人は少ないんじゃないかな。

死ぬことはもう、絶対やでやで、恐くて恐くて、ってことではないけど、生きてる日々が

実に楽しいって感じられるならば、いくら長生きしてもいいだろう。

仕事やなにかの目標に楽しく励んでそれなりに少しづつ成果も出てる人だったら、もう生

きてんのがやんなったな〜、死んでもい〜かな〜、とは考えないだろうけど、そういった

目標も見当たらず、やることなすこと失敗ばかりで金もないし友達もいない、歳もとって

体も衰えて行くばかり、あちこち体調不良だ、ってことになると、も〜い〜か死んでも、

って気にもなるかもしんないんだけど、そういった逆境を救うのは多分向学心、っていっ

たもんなのだ。向学心、何かを認識して行こう、ってこころ、これにはさほどの体力も金

もいらない。何かを知ると必ず、じゃ、って次の疑問が出て来る、そうなれば、もう楽し

い果てしない旅の始り。

そのテーマは自分が夢中になれるかどうかだから、人それぞれ、自動車の外形の変遷や機

能でも性能についてでも、映画の歴史と評価でも、新しいそれらの制作でも、生物の世界

についての理解でも、新種の捜索や発見でも、医薬品の開発でも、なんでもかまわないわ

けで、そんなことやってなんになるんだ、って他人がどう思おうが知ったこっちゃない。

そういった人を夢中にさせるものの中には、多分常に発見されるものが隠されてるのだ。

人はそれを見つけることを連続させて行く、ってことがその旅の構造なんだろう。

1人の人が夢中になるものは、当人の意志のあるなしに限らずどっかで普遍性を持ってて、

それぞれの認識の積み重ねが世の中のためになる成果を生まないとも限らないのだ。

もっとも私なんかはどちらかといえばもともとなんだけど、歳をとって、物質的なものの

追求といったものに対する興味が薄れ、例えば、宗教や哲学のような、精神的なものに惹

かれるようになると、より、他人からの社会的評価や身体的衰えと無関係になるから、よ

りそれこそ精神の自由が得られる、ってもんで、こっちも旅の果てがない。




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